私にあるものを上げよう | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

 今日は、使徒3章1節~10節までのところから「私にあるものを上げよう」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。

 使徒行伝3章からは、聖霊降臨によって誕生した初代教会の伝道活動を見ることが出来ます。十二使徒たちによる不思議な業や奇蹟がなされ、キリスト者の存在が社会の中で大きな波紋となって行くのが分かります。そうしながら教会は、ここから大きく前進していくのです。

 

 しかしながら、それと並行して、ユダヤ教の指導者たちからの迫害の始まりでもあったのです。そうしながら使徒たちによってキリストの福音が拡大して行くのが、使徒行伝全体の内容です。

 

 迫害、できれば避けたいものです。しかし、大きな恵みなのです。神の福音が地の果てへと拡大して行くことにるからです。タンポポの綿毛強い風によって種がまき散らされる様…。 

 

 それでは1節から見てみましょう。ここを見ると、二人の弟子が宮に上って行ったとあります。あれ? 教会が誕生したのに何で宮に行くのかと思いますが、この時は、キリスト者はユダヤ教の中の一派として認識されていただけでしたので、習慣通り宮に行って祈っていたのです。ただ、宮ではキリスト者だけが集まって祈りを捧げていたのです。

 

 この二人の弟子とは、ペテロとヨハネです。彼らが宮に上って行くと、美しの門の前で物乞いしている足の不自由な男と出会ったとあります。この男は、毎日そこに運ばれてきて座らせられていました。どうして美しの門だったのかと言うと、そこが一番多くの人が利用していて、施しを得るには一番良い場所だったからです。ですから、目的は祈りではなく人が目当てだったのです。

 

 3節をご覧下さい。この男は、ペテロとヨハネを見て施しを求めたとあります。よっぽどお金持ちに見えたのでしょうね…。

お金持ちかどうかはともかく、私たちクリスチャンは、人からどう見られているということを意識しておくことは大切なことです。それと同時に、積極的にキリスト者としての姿を見せて生きていくことも大切な証しになりますので大事なことであります。

 

 さて、もう一度この足の不自由な男に目を向けてみましょう。彼は毎日美しの門に来ていたとあります。それも40年間です(2節)。よっぽど熱心な信仰者のように見えますが、残念なことに、それだけ来ていながら、なぜ彼の人生は変わって行かなかったのかと疑問もわいてきます。

 

 その答えは、彼は、祈るためでも、礼拝するためででもなく、人を目当てに来ていたからです。これでは、根本的な問題の解決を得ることが出来ないのです。

 

 でも、感謝なことに、彼はペテロとヨハネを通して神の恵みへと導かれてゆくのです。4節~5節をご覧下さい。ここは実に不思議なやり取りです。ペテロとヨハネは期待させた。しかし。男の人にとっては期待外れの答えが返ってきた。「金銀はない」と言われがっかりしたことでしょう。

 

 しかし、その後の展開が素晴らしいのです。この足の不自由な男は、自分が求めていた物を得ることはできませんでしたが、それ以上の物を得ることになったからです。

 

 この出来事から学ぶべきことは、私たちの教会は、人々の様々なニーズに応える万事屋ではありませんが、様々な期待を持って来る人々を退けてはいけません。しっかりと向き合うのです。

 

 そこで、教会にとって重要なことは、教会でしか手に入らないものを与えてあげることです。それが、神のみことばであり、イエス・キリストの十字架の愛と救いです。

 

 私たちの信仰生活のあり方は、みことばをしっかり見つめ、そのお方にしっかりと焦点を合わせた歩みでなければなりません。

詩篇19篇7節~11節