わたしは良い牧者 | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

 今日は、ヨハネ101節~11節までのところから、「わたしは良い牧者」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。 

 

 11節のみことばは、多くのクリスチャンの方が愛誦しているみことばだと思います。私もこのみ言葉で慰められ励まされました。今日は、1節~10節を中心に学びたいと思います。と言いますのは、ここにはその良い牧者であるという前提が書かれているからです。

 

 聖書を見ると、選民であるイスラエルの民を羊に例えて語られている所が幾つもあります。代表的なのは詩篇23篇です。神に対する揺るぎない信仰の姿が伝わってきます。その根拠はどこにあったのかと言うと、私は神様から愛されているという確信からです。

 

 ところで、どうして聖書は、神と選民イスラエルの民との関係を表すのに、羊飼いと羊の群れのたとえを使うのかと言うと、神とイスラエルの民との関係を表すのにピッタリだったからです。

 

 羊という群れは、羊飼いに導かれなければ生きていけません。自分一人で牧草を見つけたり、外敵から身を守ることもできないからです。ですから「一匹狼」はいても「一匹羊」はあり得ないのです。

 

 そこで、もう一度ヨハネ10:1をご覧下さい。羊の群れの所には、羊飼いも来るけれども盗人も来るので気をつけなさいとイエス様は仰っています。ですから、ここで大切になってくることは、どうすれば私たちは本物の羊飼いと偽の羊飼いとをちゃんと見分けことが出来るかと言うことです。確かに、盗人はいかにも俺は盗人だとばれるような姿では来ないからです。

 

 しかしながら、今日のみ言葉の中にその見分けるポイントがちゃんと記されているのです。ヨハネ10:1です。それは、どこを通って来るか、それによって見分けることが出来るのだと言うのです。ですから、私たちは見た目や羊飼いらしいと言うことで判断したりするのではなくて、門を通って来るどうかによって見分ける必要があるのです。 

 

 その門とは何かというと、78節をご覧下さい。ここにはっきりと記されています。「わたしは羊の門です」と、つまり、イエス様こそが羊の囲いの中に入るための門であり、この門を通って来る者こそがまことの羊飼いなのです。ですから、この門を通らないで柵を乗り越えて入って来る者は盗人だから、私たちは気をつけなければなりません。

 

 私は中学生の時、キリスト教会に行きたいと思っていました。そんなある日、ご婦人二人か家に訪ねて来て、この聖書の言葉を読みませんかというのです。当時百円で販売していました。私はてっきりキリスト教会の聖書だと思って何度か買って読んでいました。そこには、愛とか、世界平和とか、暴力反対と言って美しい言葉が沢山ありました。

 

 その後、友人に誘われて町田の教会に導かれ、二十歳の時洗礼を受けました。そして知ったのは、中学生の時、聖書だと思って読んでいた雑誌はエホバの証人(異端)の教えだったと知りました。ですから、この門を通らないで入って来る教えには気をつけなければなりません(Ⅰヨハネ4:1~3)

 

 6節~8節をご覧下さい。「彼らに話された」とありますが、これはパリサイ人たちのことです。彼らは何のことか分からなかったとあるますが、分かろうとしなかっただけです。

 

 こう言った背景には、当時のキリスト教会の現状というものを見据えてのことだったのです。当時のユダヤ社会の指導者たちは、イエスを救い主と認めないだけでなく、キリスト教会の信徒たちを迫害しユダヤ社会の共同体から追放しようとしていたからです。

 

 ですから、ここに書かれていることは、当時のパリサイ人たちによる教会への迫害が背景にあると言うことを理解しておく必要があるのです。

 

 そこで、大切なのは私たちは羊の声を聞き分けることです。その為にこそ、礼拝が大切なのです。