


そして公開の7カ月前の6月にビルマへロケーション撮影をするための渡航申請を出したが、当時の国際情勢もあって入国許可が下りず、そのまま雨期となったので乾季になる11月に撮影を変更し、夏の間は国内の軽井沢や箱根、伊豆などの代替地でドラマの一部を撮影した。
ところが11月になっても入国許可は下りず、業を煮やした日活社長の堀久作が「すまんけど、全部日本で撮ってくれ」と直談判分する状況となったが、監督の市川崑はパゴダの黄金仏塔やシッタン河の泥河、ムドンの街並の撮影は日本では無理と考えビルマでのロケに拘った。
だが日活側は「築地の本願寺はビルマの寺院に似てないか?河は多摩川だっていいじゃないか」と国内ロケへの変更を再三提案し挙句の果ては原作者の竹山道雄まで「僕はビルマに行ってませんよ。あれは私の頭の中で書いたものです。あなたがビルマに行かなくても頭で描いていいんじゃないですか。」と言う始末だった。
市川に友人の新聞記者が1時間の<第一部>を作って劇場公開をして封切り問題を解決させ、後日ビルマロケを終えて再編集したものを<総集編>として劇場で公開するという二部作劇場公開案を提案し、市川が日活にこの提案を持ち掛けたところあっさり快諾したため、主人公の水島が小隊と橋ですれ違う場面で物語が終わる63分の<第一部>が先行して公開された。
その後、1956年1月にビルマへの入国許可証が下りたが、同行できる俳優は水島役の安井昌二のみ、撮影期間は一週間という厳しい条件で、市川はその条件下でビルマでの撮影を行った。現在でもシュエダゴン・パゴダなどに、撮影当時の面影をみることができる。
市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、日活側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」「<第一部>と<第二部>をくっつけたプリントを<総集編>にできないか」と約束を反故にする提案を持ち掛けたため、市川はこれに激怒した。
このため封切りの時点で、市川の構想通りに再編集された「総集編」と「第一部+第二部」をくっつけただけのフィルムが同時に上映される事態となり、「総集編」はメインの日活封切館がある新宿や丸の内などの都市部での限定公開、それ以外の地方は「第一部+第二部」の上映だった。このことが禍根となり、市川は日活を辞めることになった。