![岩木山と蓮池と桜並木](https://stat.ameba.jp/user_images/20240513/20/megomegoco/c1/08/j/o1200070015438387287.jpg?caw=800)
![岩木山と桜並木](https://stat.ameba.jp/user_images/20240513/20/megomegoco/6d/f4/j/o1200070015438387285.jpg?caw=800)
![蓮池と桜並木](https://stat.ameba.jp/user_images/20240513/20/megomegoco/f0/a1/j/o1200070015438387283.jpg?caw=800)
![弘前城古地図](https://stat.ameba.jp/user_images/20240505/09/megomegoco/7e/e8/j/o0832087615434585123.jpg?caw=800)
![四神相応](https://stat.ameba.jp/user_images/20240514/17/megomegoco/d2/52/p/o0920064015438710035.png?caw=800)
撮影場所は、本丸中央の現在地から西側を撮りました。弘前城本丸は元々小高い丘で、築城前は鷹ケ丘(たかがおか)と呼ばれていました。これは城地が高台にあることや、昔は鷹が営巣していたというところに由来があるようです。
それが鷹丘から高岡と言う地名になったのですが、高岡城五層天守が落雷のため火薬庫に火が着き炎上後に蓮池へ向かって焼け落ちました。
そこで高岡のままでは縁起が悪いとのことで、徳川家康の側近であり風水による江戸建設を主導したとされる僧・天海と弘前藩の2代目藩主が懇意であったことから、弘前の城下町建設にも風水の考えが取り入れたと言われています。
高岡(鷹岡)を「弘前」と改めたのも天海とされます。弘前市史 藩政編より「信枚君一代之自記」に「弘前」という名称が用いられたのは、寛永5年(1628年)の8月20日と記録されています。
弘前の名前は天台密教における破邪の法から名付けられ魔除けの意味があります。弘はどこまでも広がる。前(さき)は邪を斬ると言う意味。
弘前は北(玄武)に津軽半島(信仰の山・梵珠山が玄武とされる)、東(青龍)に土淵川、西(白虎)に西浜街道、南(朱雀)に南溜池があり日本的な四神相応に適っています。
鬼門(東北)には弘前八幡宮、裏鬼門(西南)には長勝寺がつくられ、日本風水で重視されるこれらの要素も押さえています。
鬼門除けなど部分的に風水を取り入れている史跡は多いが、城下町全体に風水を取り入れられている事例は珍しい。弘前は戦災を逃れていることから、400年前の街並みを今に残します。
弘前の城下町建設と風水より記事を一部引用
右下の図はFact Stock(ファクトストック)より画像を引用
![弘前城本丸中央の現在地](https://stat.ameba.jp/user_images/20240513/20/megomegoco/73/9d/j/o1200070015438387282.jpg?caw=800)