



津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長八年(1603年)に計画され、二代・信枚(のぶひら)が慶長一五年(1610年)、築城に着手し、翌年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの260年間、津軽藩政の中心地として使用されました。平成23年(2011年)には築城400年の節目の年を迎えることとなりました。
築城当時、天守閣は現在の本丸西南の隅にあり五層の堂々たる天守がそびえ建っていました。寛永四年(1627年)9月10日の亥の刻(午後10時頃)、天守に雷が落ちました。落雷により天守は炎上し、四層目には火薬を置いていたため大爆発を起こし焼失してしまいました。
天守は土台石垣から南の堀へ落ちて炎上し、火薬が爆破した時には柱、白壁など遠く半径約10kmあたりまで飛び散ったと伝えられています。このため所蔵していた鉄砲1500挺、槍2000本、具足1000領その他の武器及び、諸記録、系図、書籍その他仕器、宝物等が焼失してしまいました。
2代・信枚が、父為信の意志をついで高岡城を築いてから17年目の災害で、多くの武器と財宝を失いました。この変事は、早速幕府にも報告され、秋田藩主・佐竹義宣は、鉄砲300挺を送って見舞いの使者を来訪させたといいます。「弘前市史 藩政編 P107~P108」当時この天守炎上は祟りによるものと信じられていました。
そこで信枚はこの祟りから逃れるため「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」と改称しました。この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。
その後、武家諸法度により自由に城を築くことも五層以上の天守閣の建築も禁じられていたため、天守は再建されず櫓で代用していました。
文化七年(1810年) 九代藩主寧親のとき、蝦夷地警備の功によって、七万石、十万石と石高が昇格したのを契機に、移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築され、翌年完成したのが、西南隅に三層を成し御三階櫓(おすみやぐら)と称される現在の天守です。
天守は、見る方向によって姿が異なる二正面の天守を成しているのが特徴で、三層三階建てで大屋根の高さが約16mという小規模・簡素ながら堂々とした雰囲気をもっています。(「弘前城築城四百年」P39~P40 清文堂出版株式会社)
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より記事を抜粋

