



そのため外国の研究者が日本の演劇関係者に寺山のことを尋ねても、極めて冷たい反応しかかえってこないケースが多かったという。
1979年 寺山修司・天井桟敷の演劇レミングが東京晴海で公開された、当日開演を待つ客の長い列に 寺山修司が客に顔見せ確認をしながら歩いてきた。皆、感激しながら静かにこの認識を体験していた。 この認識も演劇の主題の一部に違いないという表情であった。
1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い『奴婢訓』を上演。年末には、最後の演出作品となった「 レミング―壁抜け男―」を紀伊國屋ホールにて上演。
1983年(昭和58年)東京都港区三田に在住中に肝硬変を発症し、阿佐ヶ谷の河北総合病院に入院後、腹膜炎を併発。5月4日に敗血症のため死去、47歳没。
"寺山修司"で検索してジュネさんの動画に出逢いました。寺山修司の事をここまで分かり易く明快に解説なさっている姿に感動です。
寺山修司は現代では50代以上しか知らないと思っていたけど、こんなに若い人から紹介されるなんて嬉しい。ジュネさんの喋り方や言葉選びがうますぎて、とっても分かりやすい。
今更ですがこの動画を見ることができて嬉しいです!今の「綺麗なもの、正しいものしか許容しない」そんな世の中に寺山修司がいたら一体どんな作品が生まれていたのだろう…と思います。惜しい人を亡くしました。
弊ブログ管理者も同じ弘前市出身ですが、亡くなるまで寺山修司を知らなかったです。亡くなった1983年5月4日は平日ですが、通っていた高校は休みでした。
5月6日に登校して山岳部の部活で弘前市民会館付近の弘前城外濠をジョギングしていた時に顧問の先生が、寺山修司亡くなったって⁉️と言われ、初めてその存在を知りました。
