

明治30年に行われた天守閣の曳家は天守台の位置から近かったものの、重機が無い設備では大変な事業であったと推察されます。良く当時の曳家位置まで記録に残っていたものだと思います。
天守の真下の石垣のみならず、東側に多く石垣の膨らみが見られたのですね。弘前市の資料によると当時の曳家の状況が古写真に残されていたそうです。
明治時代の曳家では、東側の石垣が多く崩落していて更なる崩落を免れるために天守閣を曳家したそうです。当時の大工棟梁である堀江佐吉が陣頭指揮をとって曳家と石垣の修理に立ち会ったそうです。
この大規模な石垣の崩落ですが、一説によると常に湧き水が循環しているところで土質も柔らかくて弱かったそうです。そこに度重なる地震と風水が土質を弱らせて、大規模な石垣崩落の原因となったそうです。
