日本一のショック男 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

パイのパイのパイ日本/植木等(1971年)

日本一のショック男植木等-日本一のショック男のオープニングで歌われた「パイノパイノパイ」は、演歌師の添田知道(添田さつき)によって作詞され大正時代に流行した俗謡。

1918年発表。元々のメロディーは、ヘンリー・クレイ・ワーク作曲の「ジョージア行進曲」(Marching Through Georgia)である。同曲は添田によって作詞される以前から、1892年に「ますらたけを」の題で国文学者・東宮鉄真呂の作詞による軍歌が販売されたり、救世軍が街宣活動で演奏するなど広く親しまれていた。

これに添田が改めて歌詞をつけたものが「パイノパイノパイ」。資料によっては作曲者も添田知道や神長瞭月とされていることがあるが正確ではない。

日本では原曲よりも「パイノパイノパイ」での知名度が高いため、ブラスバンドがジョージア行進曲を演奏したところ、卑俗な歌を演奏するとはいかがなものかと苦情が来たというエピソードもある。

売文社に勤めていた添田がある日「のんき節」の掲載許可を貰いに父・添田唖蝉坊の元を訪ねると気まぐれに、演歌を一つ作ってみないかと言われた。

当時流行りつつあった洋食屋のメニューを羅列したような仮歌であったが、唖蝉坊がメロディーを口ずさむと、幼少期に神奈川県大磯の実家に預けられていた時に遊び仲間から「ますらたけを」のメロディーで囃し立てられた記憶が急に蘇り、小説家志望で歌は嫌いでなかったこともあり、作詞経験はないがつい釣り込まれてしまった。

その席上、唖蝉坊にはどうせ浮世は出鱈目だという人生感があり、口癖になっていてその場でも出た。そうして「デタラメ」が「ラメ」となり「ラメチャン」となって囃子言葉はスラスラと決まり、全体は宿直の一晩で書き上げた。このとき添田知道は19歳だった。

「パイノパイノパイ」の大流行につれて新たな歌詞が求められ、京阪神・中京・吉原の風俗、更に第一次世界大戦の戦後処理のためパリ講和会議に全権として参加した元老・西園寺公望が愛妾や料亭・灘萬の店主を伴ったことが大新聞に取り上げられたこと、会議の結果としてドイツが所有していた山東省の権益や南洋諸島の委任統治権を得た戦勝気分を背景として添田が改詩したものが「平和節」の名で1919年に発表された。

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