
島は雄山を最高峰とする水深300 - 400mの海底からそびえる火山体で、玄武岩質の成層火山である。頂上部に直径約3.5kmの桑木平カルデラと、その内側に2,400年前に形成した直径約1.6km八丁原カルデラがあり、雄山はその中央火口丘であったが、2000年の噴火によって新たに直径約1.6kmのカルデラが形成され八丁原カルデラは消滅している。玄武岩質マグマ起源の溶岩は粘性が低いため溶岩流となり、三宅島でも過去何度も流下している。1983年には溶岩流が阿古地区の集落の約7割を焼失させた。このほか、山腹には割れ目噴火も発生しており、線上に並ぶスコリア丘や、海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発による爆裂火口地形(マール)がいくつも見られる。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
三宅島の南約18kmには、御蔵島がある。人口200人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船えびね丸の基地が置かれた阿古地区には御蔵島会館が置かれ、御蔵関係の人々の利便を図ってきた。三宅島の商店や建設業者にとっては、競合相手の少ない御蔵島は重要なマーケットであった。また漁業者にとっても、地元の漁師が極めて少ない御蔵島周辺海域は絶好の漁場であった。
1993年以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、これに目をつけた三宅島の人々も続々参入した。中には「三宅島から45分」など御蔵島の名前さえ出さずにアピールする業者もあるほどで、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、ウォッチングに使う漁船の大きさで圧倒的優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変する。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として東京からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、イルカなど動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、避難解除後も御蔵島への船便はそのまま維持された。三宅島と東京を結ぶ航空便の利便性も大幅に低下したため、御蔵島にとって三宅島は物資・交通の中継地ではなくなった。
結果、三宅島としては重要なマーケットを失うことになったほか、イルカウォッチングも観光の目玉として噴火前のように前面に打ち出すことができなくなった。現在も三宅島からのイルカウォッチングは行なわれているが、そのポジションは渡島スケジュールやキャパシティの問題で御蔵島に行けなかった人たちを受け入れる補完的なものに過ぎない。また帰島後のウォッチング再開にあたって東京都や御蔵島と協定を結ばざるを得なかったため、以前のように無制限に御蔵島周辺に行けるわけではない。