高木恭造 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

高木恭造 「陽コあだネ村」―津軽半島袰月村で~「風ネ逆らる旗」 (1981)

高木眼科医院看板高木 恭造(1903年10月12日 - 1987年10月23日)は、日本の方言詩人(津軽弁)、医師。

青森県青森市出身。青森県立青森中学校、弘前高等学校卒業。青森日報社、出版社勤務を経て1933年に満州医科大学医学部卒業。青森日報社時代、当時主筆を務めていた詩人・作家の福士幸次郎の助言により方言による詩作に取り組むようになる。満州から引き揚げ弘前市北川端町1番地に高木眼科医院を開業する傍ら詩や小説などの創作を再開、全国で方言詩の朗読公演を行なうなど精力的に活動した。代表作「まるめろ」は海外でも翻訳され、その朗読と共に作品としても高い評価を得た。

津軽弁での優れた詩を多数創作し、彼に魅せられた人物も多く、ローカルタレントの伊奈かっぺいもその一人。

高木の死後、伊奈かっぺいと現青森市長の鹿内博らによって、高木の命日である10月23日を「津軽弁の日」に決定。 昭和63年の第1回以来、一般公募による津軽弁を用いた文芸作品を披露する模様が人気を博し、現在では年末に青森放送で放送されている。

上の絵は、高木眼科医院の看板です。まだ幼かった頃、病気になると本町から歩いて南川端町の児島小児科に連れて行かれました。その帰り道、土手町の紅屋で母親と買い物に行く途中、よくこのような目玉だけの不気味な看板を見ながら歩いたものです。やがて目玉看板はひっそりと取り外されて行方知れずになったのですが、幼心にとても思い入れのある看板でした。

冬の月

冬の月

嬶(カガ)ごど毆(ブタラ)いで戸外(おもで)サ出ハれば
まんどろだお月様だ
吹雪(フイ)だ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何處(ドサ)エくどもなぐ俺(ワ)ァ出ハて来たンだ

―――ドしたてあたらネ懀(ニグ)ぐなるのだべナ
懀(ニグ)がるのァ 愛(メゴ)がるより本氣サなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア、ドしたごどだバ

ああ みんな吹雪(ブギ)と同しせェ 過ぎでしまれば
まんどろなお月様だネ



…標準語に翻訳

冬の月

冬の月妻を殴って家の外に出たら
万燈籠のようなお月様が光っていた
吹雪いた後のヤブをかき分けて
何処へ行く宛てもなく俺は出て来たんだ

どうしてあんなに憎くなるものなのか
憎くなるのは、愛するより本気になるもんだ
そしてまた愛したいと思ってしまうのは、どうしたものか

ああ、みんな吹雪と共に過ぎてしまえば
万燈籠のようなお月様になる