隆の里が急死 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

元横綱隆の里・鳴戸親方が急死 59歳

隆の里隆の里 俊英(1952年(昭和27年)9月29日 - 2011年(平成23年)11月7日)は、青森県南津軽郡浪岡町出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷俊英(たかや としひで)、現役時代は身長183cm、体重159kg。得意手は、右四つ、上手投げ、吊り、寄り。 引退後は年寄・鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里、若の里、隆乃若ら多くの関取を育成した。

幕下だった1972年(昭和47年)に、暴飲暴食による糖尿病を患った。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失ってしまった。幸いにも稽古するなとは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。

千代の富士(隆の里とは同時に十両に昇進している)は隆の里を大の苦手にしていた。千代の富士いわく「相四ツだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」という程のものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。隆の里は千代の富士攻略のため、千代の富士の相撲をビデオテープに録画。何度も繰り返し再生し、千代の富士の弱点を徹底研究していたと言われる。その結果ビデオテープが擦り切れたり、ビデオデッキが壊れたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びに来た友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。

1982年秋場所 隆の里 対 千代の富士

引退後は年寄・鳴戸を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1989年(平成元年)2月1日付で力櫻ら6人の内弟子を連れて二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされている。

2011年11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが、夜になり体調不良を訴え、福岡市内の病院に入院し喘息の治療をしていたが、翌11月7日午前9時51分に福岡市内の病院で急性呼吸不全のため死去した。

1983年秋場所 隆の里 対 千代の富士

隆の里が活躍していた時代、私は高校生でした。地元弘前の新聞スポーツ欄にもデカデカと記事が掲載され、郷土期待の星そのものでした。晩年になって色々ありましたが、今はその輝かしい功績を称えるのみです。あの世で安らかにお過ごしください。

青森県出身力士は昭和末期に旭富士が横綱になって以来、貴ノ浪の大関止まりで横綱を輩出していません。かつて若の里にも期待していた時期はあったのですが、もしかして急遽引退して西岩親方として元鳴戸部屋の力士を預かるかも知れません。詳細は、以下の記事を参照。

1986年初場所 隆の里 対 保志…現役最後の取組

★鳴戸親方の急死で鳴戸部屋は部屋付の西岩親方(元幕内・隆の鶴)が継承する可能性が高くなった。師匠不在では部屋は存続できず、本場所にも臨めない。協会関係者は継承問題について「西岩親方が鳴戸の名跡を譲渡されて部屋を継承するのが、一番すっきりするのじゃないか」と話した。

ただ、西岩親方は若の里が所有する年寄名跡(親方株)を借りているため、協会の内規では部屋の継承を認められない。鳴戸親方の株を西岩親方に譲渡し、名跡を交換しなければ、鳴戸部屋を継承できない。理事会、鳴戸親方の遺族との話し合いになるが、現在いる稀勢の里ら力士のことを考慮すると最善策と思われる。

また、西岩を所有する若の里が部屋を継承する可能性もあるが、二枚鑑札(現役のまま師匠になること)を協会が認めておらず、若の里自身も現役続行を希望している。同じ二所ノ関一門で二子山部屋出身の松ケ根部屋(54=元大関若嶋津)への転籍の道もあるが、大関獲りを目指す稀勢の里ら所属力士のことを考えると可能性は低い。8日の臨時理事会で西岩親方の名跡交換が承認されれば、新生鳴戸部屋がスタートする。

日本相撲協会は8日、福岡国際センターで臨時理事会を開き、師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)が7日に急死した鳴戸部屋を、同部屋付きの西岩親方(元幕内隆の鶴)が継承することを承認した。西岩親方は8日付で年寄「鳴戸」を襲名した。 

これにより年寄「西岩」は元幕内隆の鶴の借株ではなくなり、現役力士の若の里のみが保有する形となった。