カリーニングラード州 | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

カリーニングラード州旗
カリーニングラード州旗

Wikipediaより抜粋
カリーニングラード州の位置カリーニングラード州(露:Калининградская область)、バルト海沿岸のロシア連邦の州。ロシア連邦の最西端で、飛び地である。琥珀を産したことからヤンタルヌイ・クライ(Янтарный Край, 「琥珀の土地」の意)と通称される。

最大の都市は州都カリーニングラード。カリーニングラードは、かつてケーニヒスベルク Königsberg (ドイツ語で「王の山」)と呼ばれ、プロイセン公国とプロイセン王国の首都であった。 州名は革命家ミハイル・カリーニンに因む。

人口は968,200人(2004年)。うち、741,800人が都市に住む。カリーニングラード市には、州の人口の約半分430,300人が住む。

住民の約82%をロシア人が占める。そのほかベラルーシ人(5.3%)、ウクライナ人(4.9%)、リトアニア人(1.5%)、アルメニア人(0.9%)、ロシア系ドイツ人(0.9%)、タタール人(0.5%)など。なお、ロシア系ドイツ人とは、ロシアの他の地域から移動してきたドイツ人であり、東プロイセンにもとから暮らしていたドイツ人のことではない。現在の人口の約半分ほどが同地で生まれ育ったと推定される。

カリーニングラード州の地図
カリーニングラード州の地図

カリーニングラード州の大聖堂現在のカリーニングラード州の地域は、東プロイセンと呼ばれる一帯の北部にあたる。

1918年、第一次世界大戦におけるドイツの敗戦にともなって西プロイセンがポーランドに割譲されたことで、東プロイセンはいわゆる「ポーランド回廊」によってドイツ本土と隔てられた飛び地となった。第二次世界大戦では、プロイセン地方は、ドイツ軍が劣勢になるに従って東部戦線の戦場となり、 敗戦直前の混乱の中で虐殺・強姦を繰り返すソ連軍を恐れたプロイセンの人々は大量の難民となって西方に逃亡した。

第二次世界大戦後、東プロイセンは分割され、北半分はソビエト連邦の、南半分はポーランドの領土とされた。それを受けて、すぐにケーニヒスベルク特別管区が設置され、ケーニヒスベルク州としてソビエト連邦に編入された。1946年にカリーニングラード州と改称。1947年までに、残っていたほぼすべてのドイツ人住民はドイツに追放された。

戦後、カリーニングラード州はソビエト連邦でも特に軍事施設の集中した地域となり、「ソビエトの不沈空母」とさえ呼ばれた。

カリーニングラード州は、軍事拠点として、また不凍港として、ロシアにとって重要な地域である。大規模な造船場や、自動車の組立工場もあり、漁業が盛ん。しかし、周囲の国々や、ロシア本国からの隔絶した地理的環境が大きな足かせとなり、輸出の不振や高い失業率が問題となっていた。だが最近リトアニアへの越境審査が簡略化され、それ以降は高い成長を維持している。また、バルト海で発見された油田に期待が持たれている。

カリーニングラード州は世界のコハク(琥珀)の90%以上を産する。ヤンタルヌイ市にコハクの加工工場がある。