ツァーリ・ボンバ | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

実験が行われたノヴァヤゼムリャの位置
実験が行われたノヴァヤゼムリャの位置

ツァーリ・ボンバ投下機ノヴァヤゼムリャは、冷戦時代に軍事的に重要な拠点であった。ソビエト空軍は島の南部にロガチェボ空軍基地を置き、初期にはインターセプター機を配備した。その後(1955年 - )は、核実験のための戦略的な支援施設となった。ソビエト連邦は冷戦の最中の1954年6月に、ノヴァヤゼムリャを核実験場とすることを宣言し、同年10月には早々に実験場の建設に着手している。現在もロシア連邦の核実験場として使用されている。現在まで、臨界前核実験などの未公表実験を除き、約224回程度の核実験が行われている。

Zone A (Chyornaya Guba) は、1955年 - 1962年の間及び1972年 - 1975年に使用された。Zone B (Matochkin Shar) は、1964年 - 1990年間に地下実験に使用された。Zone C (Sukhoy Nos) は、1958年 - 1961年間 に使用された。中でも1961年の核実験では、史上最高の50メガトン級の水素爆弾・ツァーリ・ボンバの爆発実験が行われた。その他にも、ノヴァヤゼムリャ島の箇所箇所で実験は行われている。

1963年の大気圏内での核実験が制限された後、1973年9月12日に最大級の地下核実験(4.2メガトン)が行われた。
ツァーリ・ボンバや他の大気圏内の核爆発実験に比べ、爆発エネルギーははるかに小さいものであったが、マグニチュード6.97規模の地震を引き起こすに至った。8千万トンの氷河の地すべりが起き、2kmの長さの湖が出来上がった。

224回にも及ぶ核実験の総爆発量は、265メガトンにもなる。これは、第二次世界大戦で使用された弾薬量の総量(広島、長崎2つの原子爆弾の総爆発量を含む)の2メガトンをはるかに超える。

1988年 - 1990年になると、グリーンピースなどの環境保護団体等により、同地での核実験反対運動が起こり、また、冷戦構造の変化や、ソビエト連邦の崩壊、社会、財政の混沌などの理由から、1990年に行われた核爆発実験が最後のものとなった。

しかし、1998年になると原子力エネルギー庁による臨界前核実験が毎年秋に行われるようになった。但し、この実験は核兵器用プルトニウム100gまでの実験である。

ツァーリ・ボンバの原寸大模型
ツァーリ・ボンバの原寸大模型

ツァーリ・ボンバの爆弾投下によるきのこ雲ツァーリ・ボンバ(露:Царь-бомба)とはソビエト連邦が開発した史上最大の水素爆弾、正式名称「RDS-220」の渾名。開発時のコードネームはИван(イワン)。爆弾の皇帝を意味するツァーリ・ボンバは西側諸国がつけたが、現在はロシアでも広く用いられている。単一兵器としての威力は人類史上最大であり、1961年10月30日にノヴァヤゼムリャで大気圏内核実験が行なわれた。

TNT換算で広島型原子爆弾「リトルボーイ」の3300倍、または第二次世界大戦中に全世界で使われた総爆薬量の10倍といわれるこの50メガトン級核爆弾の核爆発は1,000キロメートル離れた場所からも確認でき、その衝撃波は地球を3周した。

ツァーリ・ボンバの爆発瞬間
ツァーリ・ボンバの爆発瞬間