
Wikipediaより抜粋

ロシア革命により、ロシア正教会は大打撃を受ける。1917年救世主ハリストス大聖堂において聖務会院が廃止され、総主教制が復活する決定が成されたが、「宗教はアヘン」と見なすソビエト政権によって正教会に対する圧迫、迫害は続き、正教会はソビエト国家への従属を加速化していった。レーニンの後継者となったスターリンは、反宗教政策を激化させていった。1931年7月18日イズヴェスチヤ紙にソビエト宮殿(ソビエト大宮殿、w:Palace of Soviets)設計コンペティションの要項が掲載された。そしてソビエト大宮殿建設地には、大聖堂の場所が指定された。新聞は大聖堂について「グロテスクかつ、全く非芸術的」「モスクワの顔にさいた毒キノコ」であると連日、批判を加えた。こうしてソビエト宮殿建設を名目として救世主ハリストス大聖堂の爆破解体が決定され12月5日大聖堂は爆破された。

ゴルバチョフ時代末期の1990年ロシア正教会聖シノドは、救世主ハリストス大聖堂の再建を決議し大聖堂再建をソ連政府に正式に要請した。ソ連崩壊後、モスクワ市長のユーリ・ルシコフは1997年のモスクワ建都850年の目玉として、この大聖堂の再建事業に着手した。ロシアの民族主義やロシア正教会の台頭も再建事業を後押しすることとなった。
1994年、モスクワ市の財政援助の下、再建工事が着手された。 再建にあたっては建築家、歴史学者、科学アカデミー調査研究員、複製技術者が多数動員され、全高103メートルのドームを中心に据えたギリシャ十字型の平面プラン、1万人を収容可能な内陣など細部に至るまで以前の大聖堂に忠実に再現された。新しい大聖堂は2000年8月19日、主の顕栄祭に落成した。