リャザン | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

アレクサンドル・ネフスキー聖堂
アレクサンドル・ネフスキー聖堂

リャザン市旗Wikipediaより抜粋
リャザン(露:Рязань)はロシア連邦の都市。。リャザン州の州都。オカ川の右岸、オカ川にトルベジ川が注ぐ地点近くに位置し、オカ川の重要な河港である。鉄道でモスクワ、ウラジーミルなどと結ばれている。高速道路M5が走る。人口は521,700人。モスクワから南東に196km。条件反射の研究で有名なイワン・パブロフはリャザンの出身。

オカ川沿いに建つ旧リャザンおよびペレスラヴリは、北欧方面とヴォルガ川流域・中央アジアを結ぶ交易都市であり、その繁栄は12世紀のアラブの旅行者アブ・ハーミド・アル=ガルナーティー(Abu Hamid al-Gharnati)の旅行記にも記されている。北の森林地帯と南のステップ地帯の境界に位置する街であったが、ハザール、ペチェネグ、ポロヴェツなどステップからの侵入者による襲撃が絶えなかった。またルーシ諸公国同士の争いも多く、1176年にはコロムナをめぐりキエフ大公と対立し、1180年にはペレスラヴリがフセヴォロド3世の軍により占領され焼き尽くされ、大公の部下たちや主教までがウラジーミルへと連行された。

ドラマシアター13世紀初頭にはリャザン公国にはつかの間の平穏が訪れ、旧リャザンは15,000人、ペレスラヴリは2,000人ほどの人口を抱えていた。しかし旧リャザンは1237年12月21日、モンゴル帝国のバトゥのルーシ侵攻によって略奪破壊されたロシア最初の街となり、以後完全に再建されることはなかった。リャザン公国の町々もことごとく灰燼に帰したが、ペレスラヴリは当時経済的重要性も失われておりほぼ無傷で残った。13世紀末には主教もペレスラヴリに戻り、14世紀初頭にはリャザン公国の首都は55km離れたペレスラヴリに移され、ペレスラヴリ・リャザンスキー(Переяславль-Рязанский)と呼ばれるようになった。

大公オレグ・イヴァノヴィチ(オレグ・リャザンスキ、1340年-1402年)の治世にはペレスラヴリ・リャザンスキーのクレムリンは南ロシア最大を誇り、世俗的にも宗教的にも大きな力を持った。しかしやがてモスクワ大公国の力がリャザン公国を上回る。1380年にはロシア史上でも有数の大きな決戦であるクリコヴォの戦いが起きた。リャザン大公オレグ・イヴァノヴィチの軍はジョチ・ウルスのママイ・ハーンやリトアニア大公国と連合し、ウラジーミル大公ドミートリー・ドンスコイ率いる軍と戦った。この戦いでリャザン大公やジョチ・ウルスは敗れ、ロシアが「タタールのくびき」から脱する第一歩となったとともにモスクワ大公国の力が伸張するきっかけとなった。

リャザンを走るトラム
リャザンを走るトラム

1521年にリャザン公国はモスクワ大公国に併合される。1708年よりモスクワ県に編入。1778年、ペレスラヴリ・リャザンスキーはリャザンと改称され、1796年よりリャザン県の県都となった。19世紀後半、鋳鉄、ウォッカ醸造、製脂などの産業が発達した。

1904年、リャザンにロシア最初の社会民主主義グループが誕生。リャザンの労働者たちは1905年のロシア第一革命に参加した。1917年11月8日(旧暦10月26日)から11月12日(旧暦10月30日)にかけてソヴィエトがリャザンに樹立された。1937年より、リャザン州の行政の中心となっている。ソヴィエト期に入って、第二次世界大戦までに食品加工、木材加工などが発達した。

第二次大戦ではドイツ軍に占領されず、戦後は自動車製造なども発展し、軽工業都市から重工業都市へと変貌した。現在では工作機械、金属加工、計器製造,石油化学などが盛ん。