
択捉島は、千島列島南部に位置する島。地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所)」から。ロシア名はイトゥルップ島(Итуруп)英語表記はIturup。
この島にはアイヌが先住しており、17世紀後半にはメナシクルの勢力がのびた。
1644年、「正保御国絵図」に択捉島を『エトロホ島』とした記述がある。これは、日本人の足跡として最初に記録が残ることとなる。 択捉島に建てられた教会→

ロシア人の足跡としては、1766年にイワン・チョールヌイ(Иван Черный)が、同島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てているのが、文献上でのロシア人最初のものである。さらに、その10年後には、ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからサヤークを受け取っている。
1786年に最上徳内が同島を探検した際、上陸時に3名のロシア人が居住し、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている。1945年8月15日当時、留別村2,258人 紗那村1,001人 蕊取村349人の合計3,608人の住人が、択捉島に居住していた。

1945年8月28日、太平洋戦争終戦間際、降伏文書調印(9月2日)直前のにソ連軍が同島に上陸し占領した(この日は、米軍先遣隊が厚木に上陸し、本土の占領が開始されたのと同日である)。ポツダム宣言第7条により、日本国の諸地点は連合国に占領されたが、一般命令第1号により、同島を含む千島列島は、ソ連占領地となった。 紗那村市街→
1946年1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令された。この結果日本は同島を含む千島列島の施政権を停止させ、直後の2月2日にソ連はこれらの地域を自国領に編入した(但しSCAPIN-677は領有権の放棄を命じたものではない)。それ以降、ソ連とその後継国家であるロシア連邦による実効支配が続いている。

かつての中心地である紗那は、引き続き同島の中心地となっている。他の主要集落として、軍民兼用の飛行場がある天寧(露:Буревестник 2006年の人口は3,105人)がある。これより島の南部や、別飛より北東部は、自然保護区域として地元のロシア人も立ち入りを制限されている。留別(露:Куйбышев)や蘂取(露:Слабное)はロシア人集落となったが、現在は両村とも廃村状態である。
同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、本来は日本固有の領土であるという見方が大きい。現在に至るまでロシアによる不法占拠下にある。