
国後島(露:Кунашир)は、北海道知床半島の東にあり、千島列島(露:Курильские острова)の最南に位置する島。この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼んでおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島)」「キナ・シリ/キナ・シル(草の・島)」などの説がある。
1945年日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に無視し千島列島に侵攻を開始、同年9月1日に占領され、現在もロシア連邦の不法占拠下にある。ロシアの制度上、サハリン州南クリル管区に属している。2007年4月1日時点に於いて日本の施政権は全く及んでいない。「北方領土」の一つで、同領土の四島のうちの一つで、択捉島に次ぎ二番目に大きく全体の29.6%の面積を占める。日本の制度上、北海道根室支庁に所属し、国後郡泊村と留夜別村がおかれている。

江戸時代には、北海道本島から千島南部に点在していたアイヌ人の領域への侵攻をすすめた松前藩が国後島にも勢力を伸ばし、商人飛騨屋に対して「場所」と呼ばれた交易・漁業拠点の運営を行わせていた。飛騨屋はアイヌ人を酷使して経営を行い、不満を募らせたアイヌ人はついに、1789年5月、国後島泊の運上屋(交易拠点)を襲撃。これは対岸の根室・標津方面にまで広がり、大規模な「国後目梨の蜂起(いわゆるクナシリ・メナシの戦い)」に発展した。松前藩は、260名の鎮圧部隊を送り込み、首謀者のアイヌ人37名を全員処刑して、蜂起は鎮圧された。この結果、日本人による国後島領有は確立された。 爺々岳→
1811年頃、ロシアの海軍軍人ゴローニンが、ロシア帝国軍に命じられた千島列島測量のため国後島に上陸すると、日本の幕府役人は彼を逮捕し、箱館に連行して幽閉した。1855年の日露和親条約で、国後島の日本領有は国際的に確認された。
第二次世界大戦前は、北海道本島からの船が発着した泊(露:Головнино)に国後島全体を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった 。島の沿岸には、全域にわたり80以上もの漁業集落が点在しており、産業としては、コンブ・サケ・カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。また、畜産、金属や硫黄の採掘も行われていた。

太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が同島に上陸、占領した。ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となった。1946年1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に編入した。SCAPIN-677は領有権の移転を命じたものではない。同年3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更された。当初は、ハバロフスク地区の一部とされていたが、1947年1月にはサハリン州が独立した。1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1948年までにほぼ全員の日本人が帰国した。
戦後のソ連は、日本に近すぎる泊を嫌い、ユジノクリリスク(Южно-Курильск)という新たな中心集落を、日本時代の漁村であった古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設した。 国後島占領記念碑
日本政府見解としては同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。