
Wikipediaより抜粋
本土決戦
太平洋戦争において想定された戦闘の1つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。
アメリカ軍の作戦
1945年11月に、オリンピック作戦 (Operation Olympic) を行い、九州南部に上陸、飛行場を確保する。その後、確保した飛行場を使用して作戦を展開し、1946年3月にコロネット作戦 (Operation Coronet) として関東地方へ上陸、東京を占領する。
ソ連軍の動向
ソ連は1945年8月8日に日本に宣戦し、翌9日未明、満州と千島・樺太に侵攻している(ソ連対日参戦)。スターリンは北海道の北半分の占領をアメリカに要求しており、実際に1945年8月後半には軍へ北海道上陸の準備命令を出していた。
この計画が廃案となった理由ははっきりしていない。有力な説としては以下が挙げられる。
●米軍が原子爆弾の開発・運用に成功し、核戦力を入手した事。
●核戦力の獲得に乗じ、ヤルタ会談で合意した事項の幾つかを撤回する動き・兆候をソ連が推測・警戒した事。
●アメリカがチャーチル英国首相から繰り返し警告されていた、戦後の社会主義国との対立を睨み、極東での陣地拡大と基地化を目論んでいた事。
●終戦直前、ソ連が南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする貪欲な姿勢を見せたため。
●対日戦で中心的役割を果し、かつ日本を占領したのは米国軍部隊であるにも関らず、その日本をイギリス人、ロシア人、中国人と後から分割統治することに対する反発。実際にドイツや朝鮮半島など、連合国で分割統治計画があった地域でもほぼ自軍の占領範囲を統治することになった。
ポツダム宣言は、北海道、本州、四国および九州と諸小島を領土とし、内地の一体性を認めているため、これを後から分割統治とすると、宣言内容と矛盾してしまう。ポツダム宣言を反故にすると、速やかに帝国陸軍を武装解除できず、日本軍は降伏を撤回し、最後の一兵まで戦う可能性があったとも言われる。
いずれにせよ、この計画が実行されなかった事は日本にとっては良い結果をもたらしたといえよう。仮にドイツや朝鮮半島、ベトナムのように資本主義を支持する国と社会主義を支持する国で分割統治された場合、前述の国の例を鑑みれば、そのまま複数の国に分断されてしまい、最悪の場合は朝鮮戦争やベトナム戦争のように、日本人同士が相討つ事態になる可能性があった。また東京の共同管理にもベルリンと同様の困難を伴ったであろう。また、すべての困難を乗り越えてドイツのように国家の再統合を達成しても、旧西ドイツと旧東ドイツのように互いの国民の精神や生活水準に著しい差異が生じ、現在の日本においても見られる日本人同士での対立や差別が顕在化する可能性があった。