昭和初期の日本 その5 | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

"昭和初期の日本(その5)"

この時代は、日ソ中立条約(昭和16年)、ABCD包囲網、東条英機内閣成立、真珠湾攻撃など本格的な戦争開始の準備といった時代です。軍部が政権を握ってしまい、戦争するしか脳が無くなってしまったのです。

Wikipediaより抜粋
日ソ中立条約…1941年(昭和16年)に日本とソ連の間で締結された中立条約。
相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵をうたった声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた。

1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達した。この背景には、ヤルタ会談にて秘密裏に対日宣戦が約束されたことがある。ポツダム会議では、原爆完成により、アメリカはソ連の参戦なくして日本を降伏させることも可能と判断しソ連参戦の回避を図ったとされる。一方、日本側はソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼していた。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。ソ連は8月8日深夜に突如、日ソ中立条約の破棄を宣言し「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告。9日午前零時を以って戦闘を開始し、南樺太・千島列島及び満州国等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。

日ソ中立条約の破棄、宣戦布告…これが北方領土全土に及び、日本軍も徹底的に抗戦しました。
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日~4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。

つまり、最悪でもポツダム宣言を受理して連合国に降伏していれば広島・長崎に原爆を落とされずに済んだのである。また、北方領土もウルップ島以北と樺太がロシア領土になるが、択捉島以南の北方領土は完全に守られたはずである。結局日本は、1945年8月15日にポツダム宣言を受諾した。これ以降も戦争を続けていたら更なるシナリオがあったそうである。