Wikipediaより抜粋
津軽三味線(つがるしゃみせん(一般にはつがるじゃみせんと発音されることが多い))は、津軽地方(現在の青森県西部)で誕生した三味線。本来は津軽地方の民謡伴奏に用いられるが、現代においては特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合が多い。撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。
弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。この「三絃」が沖縄を経て畿内に持ち込まれ(異説あり)、江戸時代中期に日本独特の三味線となった。以降、三味線は日本各地の土着芸能と融合して様々に発達し、当時日本最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。
津軽三味線の楽曲の原型は、新潟地方の瞽女(ごぜ)の三味線と言われる。その他、北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみる。しかし、津軽地方においてはボサマと言われる男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた。
作家の大條和雄によれば明治10年代に仁太坊(にたぼう)が現れて革新的な奏法を生み出したとされる。さらに下って白川軍八郎、木田林松栄、高橋竹山、梅田豊月らの演奏家が出るに及んで、津軽地方の三味線は他の三味線音楽とは異なる発達を遂げた。三味線も細棹ないし中棹から太棹に変化し、奏法も「叩き」を主流とする打楽器的な奏法となる。
昭和40年代の民謡ブームで一世を風靡、三橋美智也らがこの三味線を「津軽三味線」と称し、以後定着をみる。本来は単なる伴奏楽器として舞台袖で演奏するものだったが、時代が下るにつれ、三味線のみで演奏する前奏部分(前弾き)が独奏として独立してゆく。現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木乃下真市(木下伸市)、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立している