ねぷたの殆どは扇形をしています。ではなぜ扇形が主流となったのでしょうか?
それは、津軽藩の藩祖・津軽為信の幼名が扇丸だったことに由来していると言われます。ねぷたの開きの部分には牡丹が描かれていますが、これは津軽家の家紋だったと言われています。他藩のような国換えも無く、藩主が同じ地に居続けたことで津軽の文化は発展してきました。弘前ねぷたも、そうした影響を強く受けています。
ねぷたは扇形ばかりではなく、人形型のねぷたもあります。ですが、完全な人形型は青森市のねぶたになります。弘前で言う扇形でないねぷたは、組ねぷたと呼んでいます。青森との最大の違いは、開きに牡丹の絵が描かれることです。裏には見送り絵もあります。元々人形型の組ねぷたが主流だったのですが、これは費用と製作日数がかかるので、安価な扇形に取って代わられました。
ねぷた絵は江戸末期の浮世絵の影響を強く受けています。明治に入り勇壮な武者絵が市民に好まれ定着して今日に至ります。天保のベストセラー小説『絵本三国志』『水滸伝』『漢楚軍談』などのさし絵が絵師のテキストになりました。
見送り絵(裏)は明治時代に鐘馗や関羽が描かれ、大正時代以降は唐美人や虞美人を描くのが主流となり、鏡絵(表)の勇壮さに対して優美な妖艶さが見送り絵に要求されるようになりました。
一昨年弘前駅前で撮ったねぷたまつりを紹介します。このねぷたも同じ場所に長く留まっていたので、ねぷた囃子が長く流れました。青森のネブタとは違って、囃し方の隊形も音の節回しもまるで違うことにお気づきでしょうか?私は弘前出身なので、こちらのネプタの方が好きです♪



JR・駅前ねぷた愛好会のねぷたを書いた絵師は 寺田 浩雲さんです。
最後にねぷた絵は骨組みから剥がされるのですが、戦前は喧嘩ねぷたと言って町内会でねぷたを突き合わせて壊し、川に流していました。さすがに現代ではねぷたを壊す風習もなくなり、骨組み自体も鉄になって保存されるようになりました。某町内会のねぷた絵は、オークションに出して売るそうです。ねぷたを運行している団体は、弘前市から5万円以内の運行補助資金が拠出されます。でもそれだけでは経費が足らず、絵を売って経費の足しにする団体もあります。
基本的に団体の運用資金は、ねぷた参加者からの費用で賄っています。某町会では、祭り期間中に一人当たりの参加料が2000~3000円かかります。また各家庭から徴収する団体もありますが、参加意思が無ければ徴収されません。そのお金で運行に参加してくれた子供たちに運行終了の都度、お菓子やジュース等を配ります。他に絵師のお礼や備品・諸経費等に使われます。運行中は大量の汗が出るので、本ねぷたのバッテリー裏に置いてある水を飲んでいます。あらかじめペットボトルに水を入れて凍らしたので、とても美味いです。
2002年は弘前某社の契約社員でしたので、会社のねぷたに只で参加できました。こうした企業が運行するねぷたは、その社員や知り合いが只で参加できます。もちろん社名の入ったゆかた等も無料で貸し出されます。他にNTTやJR等も社員であれば只で参加できるようになっています。
