「他人を嫌いにならない努力をしなさい」
もしも、誰かにそんなことを言われたらあなたはどう思うだろうか。あるいは、本屋の前を通ったときにそんなタイトルの本が平積みにされていたら、どう感じるだろうか。
私という短い人生の中で、私は多くの人を嫌いになった。それは生理的な嫌悪であったり、自分が変化した結果であったり、恐怖であったり、理由は様々だ。様々な理由で私は『私はあなたが嫌いだ』と言い切れる人間が存在している。
でもそれを咎める人は少ないと思う。何故ならばそういう時代だからだ。
争いごとを避けるため、不快感を避けるため、なんとなく……ハッキリした理由がなくても他者と距離を置く。距離を置かれた者は空気を読んでそれを受け入れる。そんな風潮が現代というコミュニティーにおいての暗黙のルールの一つになっていると思うから。
学生という肩書があり、多くの人間と毎日のように顔を合わせていた時代にまだスマホというものは広まっていなかった。それでも携帯電話はあり、送ったメールが届かない。そんな経験を何度もした。スマホが普及し、Eメールなんて存在が廃れ、でも代わりに複数個所で他者と繋がるようになったら、それはより気軽に変化していく。ボタン一つで他人とサヨナラできる世界の到来。
人間関係というもの事態がとても近くて希薄になったとも言える。
そんな世界で、他人を嫌いになったとして、その原因は誰にあるのかと考えたことはあるだろうか??
私の家族は崩壊している。それは元をたどれば、祖父母のせいであり、もしかすると祖父母がそうなったのも曾祖母や曾祖父、あるいは時代というもののせいと言えるのかもしれない。
過去の原因を振り返ればいくらでも言い訳は見つかるだろう。
「お母さんも可哀想な人だったんだよ」
魂にまで恐怖が刻み込まれるような虐待をおこなっていた母親の過去がわかったときに、いくども言われた言葉。
「過去は変えられないから、これからが大切なんだよ」
正論である。タイムマシーンもないこの世界。あったとしても、過去の改変など難しいだろう。だから、未来を変えることができるのは、今、何をするか。
「それはあなたがちゃんと反抗期に反抗しなかったからだよ」
家庭が完全崩壊する直前に言われた言葉。ここで、タイトルにした【他人を嫌いにならない努力】ということについて考えてみようじゃないか。
この三つのセリフは同一人物から発せられた言葉だ。一見すれば過去は変えられないから反省点を生かしてこれから頑張れという風にもとれる。が、実際は母親のことは擁護し、問題は私であると言われた会話なのだ。
とても傷付いた。私はとても傷付き、苦しんだ。苦しい思いをしているのは私なのに、何故さらに傷付けられなければならないのか。何故、私は責められるのか。明白な答えはあるが、話がそれるのでそれは語らない。
この言葉を私に押し付けてきた人物を嫌いになったかと言えば、嫌いにはなっていない。理由としては傷付けられる言葉も多く言われたが、それ以上に助けてもらった恩があり、無理なことであっても的外れではないから総合して「嫌い」などという結果にはたどり着かなかった。
人間にはそれぞれ必ず一つは良いところがある。
そんな定型句があるわけだが、実際問題ある程度の付き合いをしていれば良いと思うところ、悪いと思うところ、好きなところ、嫌いなところ、どうでもいいと感じるところ、肉を解体するように様々な部位に別けられると思う。
嫌いと思う部位があまりにも多かったり、毒があることに気が付いた、あるいは腐っていると感じれば廃棄する。好きな部分があったとしても、それを食べきってしまえば廃棄になる。
だから、人は他人に好かれようという努力をする。廃棄されない為に。
毒があったり、腐ったものは食べれずとも、嫌いは我慢をすれば食べ続けられることも可能だ。可能だが、それをそのまま食していれば、より嫌いになる。
だから、それをできる限り無理をせずに食べる努力をする。そんな嫌いな食材を食べるような努力を無意識的に多くの人がしていると思う。
もっと簡潔に述べるなら、許す。あるいは目をつぶるという行為だ。
自分が相手を許しているように、相手も許してくれているのかもしれない。自分の至らない部分に目をつぶってくれているのかもしれない。様々な価値観の違いの中で、自分を受け入れようと努力してくれているのだ。自分がそうしているように。
わざわざ言語化しなくても、多くの人達はそうして人間関係を成り立たせているのだと思う。無意識的に。だって、わざわざ他人の粗を探して、嫌いになるなんてまともな人ならしないから。
では、私はそんな事が語りたかったのか。そうではない。
わざわざ他人を嫌いになることはないと言ったが、嫌いとはどういう感情なのか。
私はこの多くは“許せない”だと考える。我慢の限界がきてしまうのだ。他のことと相殺できない程の許せないになってしまう。
一番簡単な許せないはやはりお金の問題になるのではないだろうか。
友人達と集まっての飲み会で、毎回お金を払わないやつがいたらどう感じるか。答えは呼ばない。関わりたいくないと思うのが普通だろう。
あるいは魅力的な異性であっても、一切お金を払わない、お礼も言わない。お金を使って得られるメリットがなければ関心を失くしたり、嫌い、それ以上に怒りを覚えるかもしれない。自分が勝手に払っていたとしても。
現代的なところで、配信者とリスナーという考え方をしよう。何度もスパチャを投げるのに無視されたなら、もうその配信者にスパチャを投げることはしないだろう。なんなら、配信を見に行くこともやめるかもしれない。
お互いに配信者で枠を行き来しており、こちらはスパチャを投げるが、相手は投げ返してくれることはない。アイテムという考え方でもいい。初めは好きで投げていても、いつか不満というものが溜まってくるのが正常な感覚だと私は思う。
だからこそ、友人関係での金銭のやり取りは気を付けなければならない。
絶対的な信用がある相手でも貸した側、借りた側でどうしてもわだかまりはできてしまう。帰って来なくても良いと渡したお金であっても、相手の反応でその気持ちはいつ変化してもおかしくはないと考える。
そう。そう考えるのならば、先に嫌われても仕方がないことをしたのは自分。
他のどんなことで貸し借りがあったとしても、金銭という形にしてしまえば、感情は急速に悪化する。それが普通なのだ。
だから「嫌いにならない努力をする」という点に置いて、金銭の持ち込みは許してはいけない行為と言える。
次に許せなくなるのは、約束を守らない。決めたルールを守らないということになるだろう。
マザーグースの詩の中に「言行不一致な男がいた」という言葉から始まる物がある。詩の内容はしりとり唄なのだが、全体的に不幸が続き、最終的には死という言葉で終わるわけで、その原因はこの詩が言行不一致、つまり、約束を守らない男から始まるからではないかという考え方をしているものもある。
マザーグースの詩の多くには教訓が含まれていることが多く、この詩が長く残ったのは約束を守らなければならないという脅しもあったのではないかと私は考える。なので、約束を破るものは嫌われる。それはやはり誰しもに大人になるまでに刷り込まれることであって、大人になると簡単に約束をすることは少なくなるのではないだろうか。
これは一種の防衛と私は考えてる。こちらから約束を持ち掛けないというのも、ある意味では嫌いにならない努力なのかもしれない。
感謝がないや言葉遣いも許せない要因になりやすい。この辺りは育ってきた環境が大きく関わるだろう。
自分の気持ちを察してくれない、距離感もあげることができるが、ここになってくるとコミュニケーション不足というしかない。あるいは甘えだ。
しかし、この全てを努力しなくても嫌いにならないという特殊状態が存在する。
それは“恋”または“愛”である。“恩”というものもあるのではないかと考える人もいるかと思うが、恩は簡単に消えてしまう。恩には明確な残量が存在する。たとえ命の恩人であっても。
でも、恋や愛には明確な残量がない。盲目という言い方もできるその間は相手を嫌いになることはない。ただし反動は一番大きい。
なんだかこれも私がしたい話ではない気がしてきた。得るものはあったが……。
「嫌いにならない努力」
上記の点で私はよく間違いを犯す。嫌われない為ならば約束やルールを曲げる。言葉遣いに目をつぶり続ける。感謝がいまいちわからなくても努力点としてとらえる。まあ、何様だという話になってきそうだが、要は相手に合わせるということだ。
でも、それは恋や愛と同じで反動がくる。
なによりも、善意のふりや同情は良くない。偽善はいつかちょっとしたはずみで“大嫌い”という感情に変化する。メリットデメリットの計算をしないなど無理なのだから。
また、相手への甘え、つまりは過剰な期待。逆に負担になっているのに甘えを許すということも反動がくるのでよくない。コミュニケーションはどんな関係性でも大切なのだ。
もっとも手軽に相手を嫌いにならないためにとれる行動は一旦距離を置くこと。
けれど、トラブルの発生を理解した上で自分自身の非というものに気が付いたなら適切なタイミングで謝罪するのが正しい選択肢なのだろう。プライドや言い訳したい気持ちなどを捨てて誠心誠意の気持ちで謝罪すべきなのだ。正直なことを話し、相手に最終判断を任せる。
ただ通りものが通るように、耳元で誰かが囁く。
『そこまでする価値がある相手なの??』
だからこそ私は思う。嫌いにならないために努力をしなければならないのだと。過ちを繰り返したくない。そう考えるから。けど、やっぱり納得はしきれないので、もう少し色々と考える必要はあるのだろう。
そんな戯言である。