最近、生きてることが『つまらない』と感じる。

やりたいことがないわけじゃない、やるべきことがないわけでもない。それなりに色々としているのにつまらないのだ。

 

「それは仕方ないよ」とカウンセラーは言った。

「貧困は毒というやつですか」と私は問い返す。

 

食事は普通に購入できるようになった。サブスクには登録したままだから、メディアにアクセスできないわけではない。電気代は気にしたら負けなので、環境に無理はしていない。

だけど、今までのようにオタ活はできない。してはならない。フラっとショッピングするのも駄目だろう。新しい本を買うこともできない。

 

読み終えていない本やゲームがあるだろうにと指摘されればそうだ。

でも、私はビブリオマニアであって、ビブリオフェリアじゃない。中身よりも集め、手元に置く。収集癖なのだ。自分の肋骨の隙間を埋めるように、本を買い、表紙を撫で、男をとっかえる悪女のように次々と新たな本を愛でたい。そうした病。

 

親ガチャの基準には家の貧富の差が取り上げられることは多い。絶対的に貧しい環境が貧しい心を作るなどということはない。けれど、やはり一定の貧しさ、それを他者と比較されたとき、確率としては親が殺人鬼だった場合、子供も犯罪を確率くらいだろうか、何かを狂わせる。

 

世の中に楽しくないことは沢山あるし、楽しい毎日を過ごしてる人のほうが少ないはずだ。それでも、私はそれなりには楽しく生きていたほうだと思う。苦しいことは沢山あっても、やりたいと思ったことをするのに不自由はそこまでしてない。

まあ、その大半がパソコンが一台あれば十分な創作活動だったからと言えるだろう。

 

「クレトちゃんは、直感型で芸術肌の天才系だから」

 

聞き飽きるほど人生で何度も言われた言葉。計画が立てられない。マネジメントなんてできない。説明ができないわけじゃないけど、なんとなくちょこっとさわって一度悶えて、そしたらできて、でも、すぐにできなくなる。不可解かつ不愉快というしかない。持続性がないというか、生き抜ける能力じゃない。

 

でも、計画が立てられないわけじゃない。順番はわかっているのだ、何をどの順番で動かして、どうすればいいのか。でも、それを他人に伝えることはできない。

 

私は自分の理想を形にできない。その為に、自分で思っていた以上に金を使ってどうにかしていたらしいと実感している。心の余裕も、行動の余裕も、金があったからこそ。

金銭というものを失ってしまった現状……本当に心が貧しくなったと思う。

そう考えられるのだって、多少でも金が戻って、食事をちゃんと食べれたから。食べれていない状態だったらそこに気が付くことさえなかっただろう。

 

貧しいというのは何となく細い棒のような印象を受ける。ふらふらと安定しなくて、すぐに折れてしまう小枝。

自分の手が、足が、自分の心がそんなものになっているのなら、一体なにが楽しめるというのだろうか。一体何度立ち上がれるだろうか。

 

金銭では貧しくとも、心が富んでいればなんて聖人君主のような事を私はいわない。

そんなのはやっていたい人だけでやってくれ。話くらいは聞いてやるが、その価値観を押し付けるな。オレは今苦しくて、今すぐにどうにかしてほしい。それこそ“「止まない雨はない」より先にその傘をくれよ”という気持ちだ。

それでも何度か危機的な貧困を経験すると、少しは慣れが生まれる。

今までは視野が狭まっても駆けずり回ってた。それはそうしないと死んでしまうと思ったから。でも、段々と案外死なないことがわかると、停止していく。思考が停止していく。ただ、時間が過ぎ去るのを待っている。なんという愚行だろうか。嘆かわしい。

 

他者に散々と動かぬことを責め立てた私がなんということだろう。これはいけない。とてもいけない。他者にやれと言ったことをやらないのはよくない。

私の中に最後に残っているのは、無意味に誇り高いプライド。何のためにだとか、どうすればだとか、ほぼ何も見えない状態だ。何に対してもやる気も起きない。だが、このプライドは譲れない。

 

だから、私は今からプライドで動く。きっと今はそれが正解。私達は結局、誇り高き育ちのネコなのだ。