このところの私はネットを開くと鬱々とした気持ちになる――。

 

人間とは日々生きているだけ、眠っている間にも膨大な量の情報を収集していると私は思う。つまりは意識的にせよ、無意識的にせよ何かを感じ、脳はそれを蓄積していると思う。

いくら人間の脳は100%使われていないと言われていても、その収集された情報を処理する事は難しいと私は考える。

 

以前、私は自分の配信で『人間はこれ以上進化することはない』と話した。

進化の定義を環境への適応だとするのであれば、この発言は間違っていたと最近感じるようになってきている。

 

ダーウィンの進化論――生物が環境に適応して変化していく。それが進化ならば、この大量の情報の中でも負担なく生きれる人類というのは新人類と呼べるのではないだろうか。

ネット疲れという言葉があり、その対処法はネットから離れることだ。しかしその度合いや、ネット疲れが起こることを年齢別に振り分けた場合やはり違いが出てくると考えている。(そうした研究論文に目を通さずに話をしていること悪しからず)

 

地上波のテレビの情報というものは偏りがあり、インターネットというものが現代のように身近になる前はエンタメ優先で間違った情報が軽々しく流されていた。間違った情報という点では日々私達が目にしている情報だって正しいものは限りなく少ない。過去と現代では見えている範囲が違うだけで、状況は変わっていないと思う。

しかしながら、大きな違いとして、テレビが情報の主流だった時代では見えなかった視聴者の声というものが現代は、見えるようになった。1の情報に対する膨大な数の情報。

 

進化という話をしたが、人間の本質自体は人類史を見れば1000年以上大きな変化はない。

極論として、進化とは淘汰の歴史でもあると私は考える。だからこそ、現代は進化できなくても生き残れる、そんな世界だから目新しい進化に気が付くことやその焦りは少ないのだとも考えるようになっている。

 

生物としては、現代もしくは現状に適合できず自死する人間のほうが生物らしいのかもしれない。

 

私の仕事は多くの情報を収集し、それをまとめることだと言える。実際にやりたいことは情報を収集し、思考し、それを他者に理解させることだが、私には様々なものが足りない。言い訳のようだが、それが現実なのだ。

 

けれど正直なところ、その仕事さえ私には難しくなってきていると感じている。

何気ない情報であれ、全てが重たく、扱いきれない。嬉しいはずの情報にも悲しみが混じる。鬱が悪化しているのではないかと問われればそうなのかもしれないが、私は私の人生での脳のキャパシティを越えてしまったのではないか。変化に、進化に置いていかれたのではないか、そんな考えが止まらない。

 

多様性という言葉がもてはやされているが、多様になるのはその種の生存確率を上げる為。

きっと私は滅びゆく多様性の種に変化してしまったのだろう。この先に待つのは、自ら先んじて死すか、時の流れに滅ぼされるか。

 

どんな形であれ、現代に適応できている生き物が妬ましくてしかたない。

そんな戯言。