前回のブログには暖かいコメントをありがとうございました
この頃自分の思考の癖を掘り下げることを意識的にしており、その一環でいろいろ考えてみました
その発端となったのが、支援学校の見学の際に出会った保護者の方のお話でした
※個人が判明しない程度でのブログ掲載許可いただいています
この日、丁度学校に来ていた2名の保護者の方にお話を伺いました
支援学校の感想、困っていること等いろいろと伺ったのですが、その中でAさんのお話がとても興味深かったです
Aさんのお子さんは中度知的障害
就学判定は支援学校だったものの、Aさんはどうしても支援級に入れたく、何度も判定相談を繰り返したそうです
Aさんは
遠い
バスの乗車時間が長い
学校での様子がわからない
地域の子と触れ合う機会が減る
等不安を吐露したのですが、次回の就学相談でそれらの不安については丁寧に説明をされ、不安は1つずつ減っていった…はずなのですが、どうしても拭いきれない“何か”わだかまりがあったようです
Aさんは旦那さん(就学判定通り支援学校希望)と何度も話し合いをし、気付いたことがあったそうです
Aさん曰く
「私は支援学校の”何か”が嫌だったんじゃないです、とにかく”支援学校に自分の子が通うのが嫌“だったんです」
その感情を認めるのはとても辛かったといいます
それは自分の中に、自分の子のような障害のある子を差別している気持ちがあることを認めることだったから、とAさんは続けました
それを聞いたAさんの旦那さんは
差別心は簡単には消えない
でもAは自分の子を愛してるでしょ?
Aの中にある差別心を理由に子の支援を奪うのは違うんじゃない?
と仰ったようです
自分のせいで子の可能性を奪うかもしれない…そう思ったAさんは初めて支援学校の見学をしたそうです(それまでは支援学校の見学すら嫌だったので旦那さんに任せていたそうです)
そこはAさんの想像していた支援学校とは全く違いました
Aさんはギリギリで支援学校への入学を決心しました
それでも地域の小学生を見ると切なくなるし、入学式にランドセルを背負っている子をみると、どうして…という気持ちはある、とAさんは言います
「でもそれも全部私の気持ちの問題であり、子どもの就学には関係ないんです
まだ差別心は消えていません。多分これからも消えないかもしれません
それでも私は自分の子を愛してますし、自分の子の成長を第一に考えることはできるので、もうそんな自分でもいいと思っています」
そう言ったAさんの横にいた保護者の方も頷いて言いました
「いつまでたっても地域の小学校へのあこがれ…というか、障害のない育児への未練はあると思います。私もそれは消せないかな」
「でもそれと自分の子育てはもう別。自分の子供の未来への不安を無くす方がよっぽど大事だから」
「何より自分の気持ちを優先して立ち止まってる時間が勿体ない(笑)子供の成長する時間はあっという間だから」
お二人の保護者の赤裸々な気持ちを聞けたことはとてもとても貴重な機会でした
差別心というのは(その対象が何かは違いますが)人の心に多かれ少なかれあるものかもしれません
それを真正面から認めたことで前に進めたAさんを見て、心から尊敬しました
自分が醜い(と思う)感情を受け止めるのは辛いことだから
最後に、この見学を提案してくださった教員の方が仰っていたことを記しておきます
「支援学校は“特別な支援が必要な児童のための学校”と考えると保護者は苦しいかもしれません。でも支援学校は”特別な支援を提供してくれる学校“と考えてもらえればなと思います。言葉遊びみたいですけどね」
※読んで頂ければ理解できるかと思いますが曲解されてるのを避けるため追記します
全ての就学判定を拒否する保護者に差別心がある、といっているわけではありません。