町奉行と映画ドラマ | meaw222のブログ

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前回、「お初~震える岩~」について書いたので、今日はその舞台となった町奉行所について書きます。

 

 

 町奉行とは

領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職を指します。江戸幕府のみでなく各藩にも奉行が存在しましたが、一般に「町奉行」という用語は、江戸町の奉行を言います。

 

この町奉行は、寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称されます。基本的に定員は2人。それぞれ北町奉行所と南町奉行所を指揮しますが、月番制(隔月ごとに民政を行う制度)であり南北に管轄を分けていたわけではありません。

 

町奉行は、任期の定めはなく、ごく初期には大名が任命されていましたが、後には旗本が任命されます。町奉行は一地方官とされていますが、他の二奉行(寺社奉行、勘定奉行)と同様に評定所一座(現在の内閣に相当)の一員でもあり、石高(俸給)は、3000石程度で旗本の身分では、最高位ランクの役職となっています。

 

町奉行は、江戸の民政を担当する役職で、その管轄下において「町触」という法令を出すとともに行政権や裁判権を有していました。

 

町奉行所は、ドラマ映画では、お白洲で裁断を行い司法部門の印象が強いのですが、現在で言えば東京都庁の様な組織で、何方かと言えば、警察裁判所以外の民政を主に行っていた部署です。

 

 

 

この町奉行になるには、目付から遠国奉行・勘定奉行等を経て司法・民政・財政などの経験を積んだ者が任命されます。特に目付(旗本・御家人の統制指導の役職)を経験していることが重要視されいてそうです。

 

 

因みに、町奉行は、寺社奉行、大坂城代、京都所司代が最終最高役職となります。

その上の老中等になるには、最初から譜代大名から始まる別の出世コースとなります。

 

 

但し、例外的に、旗本から老中まで上り詰めた人物がいます。それが、賄賂政治で悪名高い田沼意次です。

 

この町奉行と同様に有名な役職としては、時代劇「鬼平犯科帳」に登場する「火付盗賊改方長官」がありますが、この「火付盗賊改方長官」は、町奉行の老中配下ではなく、若年寄直属の役職であり、主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まり犯罪者を多少強引に検挙しても許される特別権限を持っているものの裁判権は持っていませんでした。

 

現在で言えば警察以上の武装を持つ機動隊の特別チームの隊長であり、町人ばかりか武士でも検挙できる大きな権限がありましたが、武官なので捜査が荒っぽく拷問も日常茶飯事であり、江戸町人から恐れられ嫌われていたそうです。

 

 町奉行の一日と職域

 

町奉行の一日

この町奉行ですが、旗本格ではエリートコースでありますが、同時に体力的精神的にも非常にきつい職務であると言われています。余りの過酷さに任期中に過労死することも多々あったそうです。

 

ちなみに町奉行の官舎は、町奉行所内にあり、365日日夜を問わずに仕事が舞い込むことも有ったそうです。(当然、休日は基本的には在りません。)

 

(北町奉行所 建物配置図)

 

町奉行の一日は、朝起きて身支度を済ませて8時に奉行所に出勤し、与力に仕事の指図をする事から始まります。

 

午前10時には江戸城に登城。「芙蓉の間」に詰めて江戸町民に出す「町触れ」などの草案を練り、中奥の老中の部屋に出向いて報告をしたり、他の役職者との公用文書の交換したりし、合間を見て弁当を食べ、午後2時には江戸城を出て奉行所に戻ります。

 

因みに、この「芙蓉の間」ですが、江戸城の本丸内にある55畳敷の大広間をいい、この部屋には、寺社奉行、留守居、町奉行、大目付、勘定奉行、遠国奉行、三殿家老(御附家老(おつけがろう)とも呼ばれ、将軍家一門に将軍が就けた家臣を言います。)などが詰めたと言われています。なお、この部屋の襖絵が、芙蓉に小鳥が描かれていたことから「芙蓉の間」と呼ばれています。

 

しかし、奉行の仕事は、これからが本番で、奉行所に戻った奉行は午後2時過ぎから裁判官としての仕事が待っています。時代劇とは違い、白洲で罪人等の話を聞いて裁断することはなく、罪状を読み上げて形式的な質問を2、3すると判決を出していたそうです。

 

とは言っても、町奉行が独断で行うことの出来るのは、流刑、追放、敲(たたき)、お叱り程度で死罪に相当する罪状の時は将軍に罪状を報告して判断を仰いでいます。従って、時代劇で白洲等で町奉行が、直接、死罪等を告げるシーンがありますが、実際にはこの様な事を行うと、越権行為と見なされ処罰の対象となります。

 

このお白洲での仕事も4時には終了します。この後は奉行所の大門は閉じられ、民政の仕事は一旦終了します。とは言え、町奉行の仕事は終わりません。奉行所内の官舎に戻って一日、20件~40件の訴状に目を通さないといけませんでした。その仕事は午前0時を回っても続く事がザラにあったそうです。

 

敲きの刑とは

話が少しそれますが、町奉行で独断で行える処罰の中で、「敲(たたき)」と言うものがあります。ドラマ映画でも「百敲きの刑」が非常に有名ですね。

 

実は、この刑は、若い頃から、法律を学んでいた江戸時代の8代将軍・徳川吉宗が、「公事方御定書」の中で、それまで希薄だった「更生」の概念を取り入れ、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰の一つでした。

 

敲に使うムチは藁(わら)で出来ていて1尺9寸(約57cm)と短かったために、打ち手はひざまずいてムチを振り落とさなければなりませんでした。これにより、打ち手は、受刑者の弱り具合を間近で見ることとなります。

 

実は、これには十分な訳があり、8代将軍・徳川吉宗の「公事方御定書」では、敲き方について、肩、背中、尻を交互に打ち、背骨は除くようにと明記しています。さらに、気絶しないようにとも定めてあります。そして、最も重要な事は、刑を受けた者が「自分の足で自宅に戻れる程度に痛めつけなさい」と示されている事です。

 

つまり、打ち手は、刑を執行している時に、罪人の状態をつぶさに観察しムチを打っていたそうです。老人、病人や女性には弱く、男性には強くとなります。吉宗は、犯罪者ができるだけ早く仕事に戻れることに心を砕いていたのです。

 

さらに、この刑の執行場所は、小伝馬町牢屋敷の表門であり、表門の前は一般の人々の通る往来ですから、見物人でごった返しています。受刑者は軽い盗みを犯したに過ぎないのに、下帯だけの裸にさせられて、身元引受人をはじめとして大勢の人が見物する中、ムチが肩と背と尻とに交互に振り落とされ、殴打による肉体的苦痛と恥しめによる精神的苦痛による二重の懲戒が加えられたのです。

 

これにより再犯の防止と見物人にも軽微な盗みだけでもこれだけの苦痛を受けなければならないことを認識させることにより未然に犯罪を防止する二重の効果が得られます。

そして、この敲が、最も多い犯罪である「盗み」に適用されていることから、社会全体の治安を保つのにも役立っています。(但し、10両以上の「盗み」は、重罪となり刑罰も一気に厳しくなり死刑が言い渡されます。)

 

前にも書いたように、8代将軍・徳川吉宗の作った罪罰は、犯罪者の「更生」を目的としたものが多く、これは、世界に先駆けたものでした。

 

また、8代将軍・徳川吉宗の行った改革である「享保の改革」は、その他にも先進的な考え方が根本に流れており、その後の改革のモデルともなっており、江戸時代が250年も続いたのは、ひとえに、この吉宗の働きがあったためだとも言われています。

 

吉宗は、「中興の祖」とまで称えられている人物であり、吉宗に関連する事はまだまだありますが、脇道に入り込んでしまったので、この話はここまでにして本題に戻りたいと思います。

 

 

町奉行の職域

町奉行の職域は、多岐に渡り江戸の町の民政全般を担当していました。

 

 

上の図の様に、司法自治、衛生、消防、土木施設など雑多な仕事を抱えており、さらに、町奉行は、月3回、現在の内閣にあたる評定所会議に出席して意見を出す義務がありましたが、これまた大名のお家騒動や直参じきさん旗本の不祥事など、町奉行、寺社奉行、勘定奉行の管轄が複雑に入り組む事件ばかりで神経をすり減らすこととなります。

 

その上に、町奉行は消火の責任者として指図にあたります。「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれたほど江戸には火事が多く、町奉行は安心して眠るという事も難しかったようです。

 

当然、これらの激務を一人で行う事は、物理的に不可能です。

従って、町奉行の補助を行う役人が、必要となります。それが、与力、同心、牢屋奉行と呼ばれる役人です。

 

 与力・同心・牢屋奉行

 

町奉行所の中で、実際に業務を行うのが、ドラマ映画の時代劇で必ずと言っていいほど登場する与力・同心です。

奉行所は、南北合わせて約250名前後で全ての民政を行っていました。当然、業務を行うために町人の力を最大限活用していました。

 

与 力

町奉行所所属の与力は一代抱えであり各職種与力の中で一番身分が低く定められていましたが、生活は裕福で市井からの付け届けだけで2~3000両の副収入を得ていたと言われています。

原則的には一代限りの役職でありますが、実際には嫡男が14歳になると与力見習いとして奉行所に勤めることとなっており、与力株という形で継承されていました。

 

与力は、奉行所では羽織袴の正装をしており、八丁堀の組屋敷に住み、月番・非番ともに朝10時に出勤し、午後4時に勤務が終了。当番方与力(宿直)という分課与力のみ2日出勤1日休みの待遇で、町奉行に比べて非常に楽な役職であったといわれています。

 

 

同 心

この同心ですが、卒族と呼ばれる身分です。

この卒族とは、簡単に言うと「足軽」の事をいい、一応武士階級でありながら、限りなく町人に近い存在です。

 

同心は、与力の指導の下に実際に業務を行う役人ですが、この中でも、与力(吟味方与力)を長として、江戸の町の警察機構を担っていたのが、三廻り同心と呼ばれる役人です。

 

 

三廻りとは、定町廻り同心、臨時廻り同心、隠密廻り同心とよばれるもので、与力と同様に住居は八丁堀の組屋敷に100坪程度の土地を拝領して木戸門付の家に住んでおり、ドラマ映画で見るように服装は町奉行所所属同心(定町廻り同心)に限り「黒紋付着流し」御免で袴はつけいませんでした。

 

働きによっては、与力に昇格することもできたといわれますが、町奉行所以外に勤務地異動はできなかったそうです。定員は各奉行所に120人いますが、直接逮捕捕物を行うのは20人余で当然、手が足らず私費で御用聞き及び下引きを雇っていました。(この私費での御用聞きとは別に、奉行所付きの「小者」という町人階級の役人もいます。しかし、この「小者」は、町奉行の直属の部下であり、通常は町奉行の身の回りの世話をしますが、非常の場合には、火事場や捕り物に駆り出されていたそうです。)
 

三廻り同心の出勤時間は、午前8時で午後7時には帰宅しており、実際の捕り物を行う役人であり、与力に比べたら、危険度や仕事内容もハードなものとなります。

但し、与力と同様に、町人からの付け届けがあり、生活は比較的裕福であり、町人である名主や豪商が、箔をつけるために、子息にこの同心株を買い、同心にさせていたとの記録が残っており、ハードな割には非常に人気のある仕事であるといえます。

 

実際に、警察機構を兼ねている三廻り同心は、全部で20人という少ない数ですので、当然、この同心だけでは、対処できないので、この同心が私費を投じて数人の非正規な部下(御用聞き)を雇い業務を行っていました。

 

この御用聞きですが、給料が年に1~2両と薄給であり、当然これでは生活が維持できないので、通常は、副業を営んでいたと言われています。

但し、この御用聞きは、通常の町人とは違い公儀を行っており、言わば名誉職であり、当然、周りからは「親分」と呼ばれ一目置かれていました。

 

因みに、この「御用聞き」を関八州では目明かし(めあかし)、上方では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と各地方で呼称は異なっています。公儀の役人である同心ではない脇の人間が拘引することから「岡っ引」とも呼ばれています。

 

但し、「岡っ引」は蔑称で、公の場所で用いたり自ら名乗る呼称ではありません。下っ引きを配下とすることから「親分さん」が正しい呼称ですが、時代小説や時代劇では良くこの「岡っ引」という言葉が使用されています。(下っ引きは、岡っ引候補であり、親分である岡っ引から衣食住を保障してもらう代わりに、無償で働いたそうです。)

 

牢屋奉行

町奉行配下の部下である「牢屋奉行」は、非常にユニークな存在です。

牢屋奉行(囚獄)は、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官ですが、罪人を扱うことから「不浄役人」と卑しめられることもあったといわれており、本名ではなく、代々、その牢屋奉行は、「石出 帯刀(いしで たてわき)」の名を名乗っていました。

 

家禄は、与力と同様に三百俵。格式は、御目見以下ですが一応旗本が勤めることとなっています。その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴えの上聴、牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっています。

 

歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか)です。明暦の大火(いわゆる振袖火事/明暦3年〈1657年〉)に際して、収監者を火災から救うために独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行ったことにより知られています。

 

吉深は収監者達に対し「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と申し伝え、猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百人余りの「切り放ち」を行います。

 

収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたと伝えられています。吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」と評し、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府もこの嘆願を受け入れて死罪を含めた収監者全員の減刑を行っています。

 

 南町の大岡越前、北町の遠山金四郎

 

この町奉行で代表的なのが、やはり南町奉行の大岡越前と北町奉行である遠山金四郎です。

 

大岡越前

大岡越前は、本名「大岡 忠相(おおおか ただすけ)」。

 

8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、激務の町奉行を20年間勤めあげ、後に関東地方御用掛、奏者番、寺社奉行を務めます。越前守だったことと「大岡政談」や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守または大岡越前守忠相公として知られています。

 

特に、大岡越前は、町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成し江戸の消防組織を強化。瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行います。

 

また、享保6年(1721年)12月には吉宗が設置していた目安箱に小川笙船から施薬院設置を嘆願する投書があったことから、北町奉行の中山時春とともに小石川養生所の設置に尽力して弱者救済に当たります。

 

8代将軍・徳川吉宗と同様に、江戸幕府の改革の立役者となっており、その為に、各種講談や小説、映画、ドラマでも取り上げられています。

 

その中でも、有名なのが、1970年から1999年にTBS系列の『ナショナル劇場』で月曜日の20時台に放送されていた時代劇テレビドラマ「大岡越前」です。

 

 

昭和の人間であれば、一度は聞いたことのあるOP(オープニングテーマ曲)で私にとっても非常に懐かしいドラマでもあります。

このドラマは、約29年間、シーズン15まで製作されており、驚くことに、このドラマの主役である加藤剛以下の主要な役者は、一人も変わることなく最終回まで出演しているという稀有なドラマともなっています。

 

 

遠山金四郎

南町奉行が大岡越前であるならば、北町奉行は遠山金四郎が代表的です。

とは言っても、この遠山金四郎は、北町、南町奉行を歴任している異例の人物です。

 

本名は、遠山 景元(とおやま かげもと)。

父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。景晋は無名の家柄であったにも関わらず、試験をクリアして異例の出世をしたとても頭の良い人だと言われています。

 

そのエリート景晋の子として生まれた景元ですが、景晋はすでに景善という養子を迎えて跡取りに決めていました。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に家に帰ります。

 

父の景善が亡くなったため、江戸幕府に出仕、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、当時世子(嫡男)だった徳川家慶の世話を務めます。

 

その後は、とんとん拍子に出世を重ね、小普請奉行・作事奉行・勘定奉行と昇進し、そして1840年、48歳のときに北町奉行に就任しました。この頃、幕府では老中・水野忠邦による天保の改革が始まりました。

 

水野忠邦の極端な法令は娯楽にも及び、町の芝居小屋を次々に廃止にしようとしました。景元(金四郎)はこれに反対し、交渉の末、なんとかして小規模な移転だけに留めることに成功しました。この一件は瞬く間に広く知れわたり、一躍庶民のヒーローになります。

 

景元は水野忠邦との対立を深めたことで、北町奉行を罷免されてしまいますが、やがて天保の改革は失敗に終わり、水野忠邦は失脚してしまいました。この結果、景元は、大目付そして南町奉行を歴任することとなります。北と南の奉行を同じ人物が務めるのは異例のことで、景元が幕府に重宝されていたことがよく分かります。

 

さて、遠山の金さんのトレードマークは、なんといっても「桜吹雪の刺青」ですが、これは、講談や映画ドラマでは定番となっています。

 

実際にも、一時期、放蕩生活を送っていたことから、何らかの入れ墨を入れていたのではと言われており、実際、奉行時代には袖を気にして、めくりあがるとすぐに下す癖があったようで、肘まであった彫り物を隠すための仕草ではないかともいわれています。

 

この遠山の金さんは、映画ドラマでも良く取り上げられおり、「遠山の金さん」や「江戸を斬る」のシリーズ物が作られています。

 

 

この「遠山の金さん」は、数々の俳優さんが演じていますが、個人的にはこの松方秀樹さんの金さんが一番お気に入りです。

 

その他にも、町奉行ではないのですが、藩の奉行を描いた映画に、役所広司主演の「どら平太」があります。

この映画も、娯楽作品としては非常に面白い映画となっています。

 

 

以上が、町奉行と映画ドラマでした。

町奉行は、民政に関わる役職であり、この町奉行を調べていくと、当時、江戸時代の町人の暮らしが浮き上がってきて、非常に興味深く感じました。