教科書から消された人々 | meaw222のブログ

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高校の歴史の教科書から、数人の有名な偉人の名が消されると言う話題がありました。これは、昭和時代の人間にとっては、かなりショッキングな話でした。昔慣れ親しんだ人物が、表舞台から降りるような寂しさを感じます。

 

とは言っても、現役の受験生にとっては、覚える事項が精査され少なくなったことは喜ばしい事かも知れません。

 

では、何故、今になって偉人と言われていた人が、急に教科書から消えてしまったのかを書きたいと思います。

 

 歴史と教育

本来であれば、歴史の勉強は、大学受験とは切り離して論ずべき事項でありますが、現実的な問題として他の教科と同様に、大学受験における学力判定の一つとしてこの「歴史」が使用されています。

 

確かに私も現役の高校生の頃は、大学受験の為に歴史を学んでいました。その時に基準としていたことは、「傾向と対策」。つまり、大学受験で良く取り上げられる事項を中心に歴史を見ていたと思います。歴史とはどちらかと言えば理解するものではなく暗記中心の教科でした。

 

大学受験が終わると、同時に受験の為の勉強は必要なくなります。

大学に入ると、専門も英語と歴史とは無関係の生活を送る様になり、歴史については全く関心がありませんでした。その後も、歴史よりも興味を覚えることが多くて、歴史からは段々と遠ざかっていきました。

 

しかし、不思議な事に、高校で学んだ歴史への態度は、社会人となっても役に立っていました。

例えば、新しい事柄を理解する時に、その成り立ちなどを調べるなど歴史的アプローチをすると、意外と解ったりするものです。

 

 科学(学問)としての歴史

次に、歴史とは、科学(学問)なのか?ということを考えていきたいと思います。

 

物事が、科学(学問)であるかどうかを判断する基準としては、再現性、そして因果関係の有無が必要となります。

 

では、歴史が科学的であるかどうかをこの2点について検証していきたいと思います。

 

まず、「再現性」ですが、よく「歴史は繰り返される」と言われます。何度も同じ状況が繰り返されるということを表した言葉ですが、この観点でいくと、歴史には再現性が備わっているといえます。

 

次に「因果関係」ですが、歴史を見てみると、この「因果関係」は如実に表れてきます。

例えば、戦国時代は、織田信長の登場により終わりを告げます。そして、その信長が、明智光秀に本能寺で討たれることにより、豊臣秀吉が、代わって天下を統一します。

そして、天下を統一した後に、秀吉が病で死ぬと、秀吉が作り上げた天下を、そのまま徳川家康が相続し江戸幕府を築き、それから・・・

 

「天下餅」という落首(世相を風刺した狂歌)に、「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」とあるように因果関係(原因と結果)が、ハッキリと現れてきます。

 

そして、上の2点以上に、科学と似非(エセ)科学を分ける項目が、「反証可能性」(どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない)です。

 

例えば、「神は存在する」ということを科学的に検証しようとします。

しかし、「神」は目にも見えず定量化することが不可能です。何よりも「神」の存在そのものは神聖なもので疑うものではないとされています。従って、「神は存在する」とは、「反証可能性性」の観点から言うと、「宗教的」とは言えますが、決して「科学的」とは言えません。

 

ここまで書くと、ある程度分かってもらえるかと思いますが、科学とは、神羅万象を定量化するといった「唯物論的」側面を持っています。

 

そして、この「唯物論的」観点は、マルクスが唱えた共産主義の根幹ともなっているもので、共産主義者が唱える反宗教、反伝統主義、反国家。反家族と非常に親和性が高いと言えます。

 

現在の学会(科学会)では、東京大学の影響力は計り知れません。

そして、東京大学の合理性とは、「唯物論的」その物であり、従って、定量化できないものは価値がない。明確に表に現れる現象のみが科学の対象となるという事です。

 

 高大連携歴史教育研究会

では、何故、知名度のある偉人が教科書から消えてしまったのかという主原因について書きます。その原因の中心にいるのが、「高大連携歴史教育研究会」という存在です。

 

高大連携歴史教育研究会は、高校や大学の教員らでつくる民間の研究会として2015年7月26日、東京大学駒場地区キャンパスにおいて創立されます。

 

この高大連携歴史教育研究会は、2006年秋に高等学校で世界史未履修問題が表面化して以来、高等学校の歴史教育のあり方をめぐって様々な意見が表明されてきました。その中では、大学入試が高等学校の歴史教育に大きな影響を及ぼしているため、大学と高等学校の教員が一緒に率直な意見交換ができる場が必要であると言うことから設立されました。

 

そして、この研究会の中心(初代会長)となっているのが、東大卒で東大名誉教授でもある油井 大三郎(ゆい だいざぶろう)さんです。

 

確かに、日本史の登場人物は新たな発見や解釈によって増え続け、30年間で67ページ教科書が厚くなっていました。30年前の日本史の用語(日本史用語集)は約6400だったのが、同じ用語集が約10700まで増加しています。

 

従って、用語が膨大なために歴史の授業時間内では十分に説明しきれずに、物事を学問的に問う教科ではなく、大学受験の為の暗記が中心の教科となっています。また、大学受験に関係なければ、歴史は切り捨てられることとなり、学習指導要領では必須履修科目ですが大学受験には関係ない教科や科目として生徒に履修させない(世界史未履修問題)という問題が発生しています。

 

 総論賛成、各論反対

そこで、この高大連携歴史教育研究会は、2017年度告示の高校学習指導要領にあわせて、高校の歴史教科書に盛り込むべき基礎用語を教科書会社や入試関係者に提言する精選案を作成し、現在の世界史約3300語、日本史約3600語から各1600語まで削るべきだと提言をします。

 

確かに、これは、総論的には、誰も反対しないと思います。

しかしながら、実際にどの用語を採用するのか?そして、その基準をどうするのか?を巡っては、各関係者の間で大きな論争となっています。

 

高大連携歴史教育研究会の最初の会長が、東大出身者ということで、用語の選択の基準には、東大イズムが大きく影響しています。

東大イズムとは、上にも書いたように「定量化できないものは価値がない。明確に表に現れる現象のみが科学の対象となるという事」です。と同時に、東大イズムは、その定義上、マルクスの唯物論的な側面をも持っているというこです。より科学的な態度を取ると、より左翼的になってしまうというジレンマが生じます。

 

これが影響して、この採用の基準が、思想的な指向性を帯びてしまうという問題も同時に引き起こしてしまいました。また、「日本学術会議問題」では、先頭になってこの「高大連携歴史教育研究会」が政府批判を行った事により政治的中立性を失い、この為に、この用語の選定(精査)で「総論賛成、各論反対」の騒動を引き起こしてしまいます。

 

 何がどう変わったのか?

では、この歴史用語の何が変わるのか?

 

 

上の第1次精査案(抜粋)を見て分かる通り、坂本龍馬、吉田松陰、聖徳太子、上杉謙信、武田信玄、楠木正成など、非常に有名な偉人の名が、「表に現れている歴史に直接関連していない」との理由で全て削除されています。(聖徳太子については特定されておらず削除されますが、厩戸皇子(聖徳太子)は存在したとしています。)

因みに、今の大河ドラマの主要登場人物は、しっかりと記載されています。

 

 

其れとは反対に、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などの用語が採用されています。

この「従軍慰安婦」と「南京大虐殺」については、かなり異説のあるもので、適切な用語としては、「慰安婦」「南京事件」とすべきであり、ここに思想的な傾きを感じさせます。

 

 

「従軍慰安婦」「南京大虐殺」事件

少し脇道にそれるとは思いますが、「従軍慰安婦」と「南京大虐殺」を少し書きたいと思います。

 

まず、「従軍慰安婦」ですが、この用語が世間に知られるようになったのが、元労務報国会徴用隊長を自称する吉田清治氏が、1977年に自著『朝鮮人慰安婦と日本人』の中で、軍令により済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたと「告白」します。

 

これを受けて、朝日新聞は、1982年9月2日(大阪版)22面において、清田治氏が「朝鮮の女性 私も連行 元動員指揮者が証言 暴行加え無理やり 37年ぶり危機感で沈黙破る」と報道し、1983年11月10日朝日新聞朝刊3面「ひと」欄で吉田氏の謝罪碑活動を紹介します。

これにより日韓の「従軍慰安婦」問題が、大きくなり、今日の両国の大問題へと発展します。

 

更に、宮澤喜一首相は、訪韓を前にした1992年1月14日に、「従軍慰安婦」問題に関連して「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ、訪韓日程における首脳会談や国会演説などで謝罪し、「真相究明」を約束します。翌年には河野談話(「心からお詫(わ)びと反省」を表明した河野洋平官房長官談話)が発表されます。

 

しかし、その後日本政府の全力を挙げて軍部(大本営及び各軍司令部)に保管されていた命令書等の公文書を全て調査した結果、吉田清治氏が唱える「従軍慰安婦」の確固たる証拠は発見されませんでした。しかも、1992年3月に歴史家の秦郁彦氏が済州島で現地調査を行い、吉田証言には根拠がないと産経新聞社月刊誌『正論』に発表します。

 

遂(つい)に、2014年8月5日、朝日新聞は、慰安婦問題に関する「慰安婦問題を考える」・「読者の疑問に答えます」と題した検証記事(16-17面)を掲載します。

 

この内容は、2014年4月から5月にかけて済州島内で70代後半から90代の計約40人から話を聞いたが強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかったとして『「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断』と報道。また「読者のみなさまへ」として「当時、虚偽の証言は見抜けませんでした。」と誤認報道の謝罪と撤回をします。

 

こうして、「従軍慰安婦」に関連した吉田証言は、虚実の物として判定されますが、国際社会における、国の代表である首相及び官房長官の謝罪は重く、この後も、韓国は日本に対する外交カードとしてこの「従軍慰安婦」を利用することとなります。かくして、「歴史的事実」の科学的な究明なく、今日まで、まるで宗教の様に「従軍慰安婦」が独り歩きすることとなります。

 

 

同じような構図で、「南京事件(南京大虐殺)」も展開されることとなります。

 

南京事件は、日中戦争中の1937年12月に日本軍が中国の南京市を占領した後(もしくはその前後)、数か月にわたって一般市民、捕虜、敗残兵、便衣兵、約20万人虐殺したとされる事件です。

 

この事件は、戦後、日本社会において、東京裁判の判決で示された南京での20万人の犠牲(中国国民党は30万人を主張)という数字や大虐殺という表現に疑問を持つ声があがったため、その発生規模や被害状況や発生要因についての論争がはじまることとなります。

 

日中戦争は、1937年の「盧溝橋事件」により勃発します。

しかし、当初は、米国が、中立法を執行し日本が軍事物資等を米国から輸入できなくなることを恐れて、1941年の太平洋戦争開戦までは、日本は中国に対して宣戦布告を行っておらず「支那事変」と呼んでいました。

 

当初、大本営は、中国との泥沼の戦争を回避しようとしますが、「盧溝橋事件」以来、大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件や広安門居留民保護に駆けつけた日本陸軍兵士が広安門で中国軍より銃撃を受ける広安門事件などの小競り合いが続きます。

 

そして、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して虐殺を実施した通州事件が発生し、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が、報復として中国保安隊に襲撃され殺害されたのをキッカケに陸軍は増派を決定し、日本帝国陸軍が本格的に中国本土に進軍を開始します。

 

中国本土への無差別空爆を実施した後に、 中支那方面軍は、中国憎しの感情から、兵站無視の凄まじい速度で進軍を続けます。

当然、自前の兵站が無い為に、食料などの物資は全て現地調達となります。表向きは、徴発という形をとりますが、実際には進軍経路上の都市や村などの略奪であったと言われいます。

 

兵站、軍の組織的統制が無いまま進軍し、わずか1か月未満の12月1日には南京攻略に成功します。中支那方面軍軍令部は、現地軍の指揮統制が最悪であり暴走状態であることを認識していましたが、中支那方面軍軍令部がコントロールを取り戻すのに更に1か月を要しました。

 

この間の、中国人の死傷者等の数は、資料や実際の発掘等によりある程度正確な数字が出ています。その資料や発掘によると、この期間に中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)合計11万9千人以上と推定されています。

 

この数字は、当時、南京に居たアメリカの宣教師のルイス・S・C・スマイス氏が、調査した死傷者数、市部(城区)殺害3250人、拉致後殺害された可能性が高い者4200人、農村部(近郊4県半)被殺害者数2万6870人と似通っており、かなり正確な数字であると思われます。

 

ところが東京裁判において下された判決では、南京およびその周辺での一般市民と捕虜の犠牲者数は20万人以上であるとされています。この数字は事後の見積もりであり、埋葬数の史料や記録、揚子江で行われた虐殺の目撃者および生存者の証言などが引用されており、この中には南京軍事法廷でも提出された資料が多数含まれているとされています。(東京裁判で使用された証拠の殆どが中国の資料に基づいていました。)

 

然しながら、アメリカ軍は、人道に反した大量虐殺手段及び民間人の虐殺を禁じた陸戦協定であるハーグ条約違反と言える、広島・長崎への原子爆弾投下により、爆風、熱線及び放射能による死者総数最大24万人、また、東京大空襲では、焼夷弾による焼死者11万5千人以上の民間人を含めた犠牲者を産み出しています。

 

アメリカ軍は、世界からの批判を避け、これら爆弾投下による日本人の死者数を覆い隠すために、死者20万人という南京大虐殺を作り出す必要があったのではとも言われています。また、中国の蒋介石もこれをプロパガンダとして使用しようとしていました。これにより、南京での実際の死者数が、完全に覆い隠されることとなり、「歴史的事実」が「政治的事実」にすり替えられる結果となっています。

 

実際には、日本軍が関わっていた慰安婦や南京で20万人が虐殺された歴史的事実があったのかもしれません。しかし、これら歴史的事実は、政治的事実で覆い隠されて、科学としての歴史の真偽性は全くないものとなってしまいました。

 

なぜ、これだけ脱線してまで「従軍慰安婦」「南京大虐殺」について説明したかと言うと、このように、歴史的事実と言われるものの中には、意図的に改ざん又は消去された事項が含まれている事。つまり、「歴史は勝者が作る」といった性格があるということを示したかったからです。

 

 

 歴史は誰の為

最期は、どうしてもこの問題に行き着くのではないかと思います。

教育の学科としての「歴史」と知識学問のための「歴史」では、どうしても目指すものが違うので、同じ物ではありますが、全く違ったアプローチとなります。

 

学校教育では、どうしても時間が限られている事から、原因から結果まで最短距離で到達することが、求められます。従って、途中の内容は省略されます。しかし、歴史においては、その途中の過程こそが大切であり、原因から結果の因果関係だけでは、歴史の本当の意味が見えてきません。

 

また、上の「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などの用語は、ただ単に結果だけを見ると過去の日本が悪いというイメージしか与えません。この為に、この学校教育の「歴史」では、「反証可能性」が全く担保されず、一方的な物の見方しかされずに、これでは「教育」ではなく「洗脳」と言われても仕方ない状況ではと思います。

 

少し古い考え方と言われるかもしれませんが、膨大な量の知識に接して、その中で法則性を見つけ出し、理解する力は、学生を卒業した後も、大きな手助けともなります。また、人生の中で、短期間であれば、勉強だけに没頭する時期があってもいいのではと考えています。

 

今回の歴史の用語の精査は、「ゆとり教育」で失敗したようなことを、再び繰り返えすのではないかと心配でなりません。歴史を愛する者としては、効率だけを目指すのではなく、歴史を知る喜びを感じられる教育も必要ではないかと思っています。