太平洋戦争、日本敗戦及び敗戦処理、そして日本国憲法 4 | meaw222のブログ

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今日は、ポツダム宣言受け入れ後のGHQによる日本占領開始から日本の独立が承認されたサンフランシスコ講和までを書きたいと思います。

 

実は、この時期の日本の敗戦処理は、この後の日本の政治に大きく影響しています。この為に、今日の流れを知っていると今、何故、日本の政治が、今、この様になっているかが分かると思います。

 

まず、日本による敗戦処理を語る上で、キーパーソンとなるのが、昭和天皇、そして吉田茂、白洲次郎です。

 

  日本による敗戦処理

日本政府が、ポツダム宣言の受け入れの条件として挙げたのが、「国体護持」でした。

「国体」と聞くと、右翼の用語のように思うかもしれませんが、これは憲法用語で、国家の体面。国家の体裁の事を言います。

 

この「国体」と言う用語が、日本で最初に使われたのが、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)であり、この新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞の中に出てくる、

「天穂比命を国体見(みせ)に遣はしし時に」 でした。正確には、「こくたい」ではなく「くにかた」と呼ぶそうです。

 

この国体は、これ以降、日本では天皇統治の観念を中核とした国のあり方を指すようになります。しかし、第二次世界大戦前後から誤った解釈により、民族的優秀性を示す概念、そして軍国主義の柱として利用されるようになります。

 

1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説がありました。これが、「天皇機関説」と言うものです。

 

この天皇機関説とは、統治権は法人たる国家にあり、天皇は日本国政府の最高機関の一部として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼(ほひつ/助言)を得ながら統治権を行使するといった説です。これは、明治維新後の日本の憲法において、採られていた考え方でした。

 

因みに、昭和天皇は、「天皇機関説」を支持しておられたのは有名な話です。

 

1935年以降、これと正反対の学説「天皇主体説」が、この「天皇機関説」を押しのけて主流となります。そして、軍部が暴走し、日本を戦争に突入させるために、この「天皇主体説」を利用します。

 

ここに、俗説とは矛盾する真実があります。

 

ポツダム宣言受諾の時に、何故、日本政府は、この「国体護持」に拘ったのかというと、別に天皇という自然人(法律用語でいう、単に「生きている人間」)を擁護したのではなく、天皇という存在を通して具現化された国家という法人を守ろうとしたのでした。

つまり、ポツダム宣言で受諾したのは、軍隊の無条件降伏であり、これをもって日本という国家の無条件降伏(亡国)ではないという事です。

 

どうですか、「国体」という意味が、思想的に右派ではないこを理解してもらえたでしょうか?

 

ここで、少し話が脱線しますが、最近、学校の入学卒業式の国歌斉唱や国旗掲揚に反対する親が話題になっていますが、これは非常におかしな理論であると思います。

 

何故なら、国歌や国旗は、日本と言う国家を具現化したものであり、国歌や国旗を否定すると言う事は、日本という国家を否定することとなります。

確かに、「思想信条の自由」は、憲法で認められた権利ですが、この「思想信条の自由」も日本という国家が担保したものであり、日本と言う国家を否定するのであれば、当然、同時に、日本国憲法が担保した「思想信条の自由」も自ら否定したことになります。

 

これは、今のヨルダン川西岸とガザ地区の状況を見れば一目瞭然であり、国が存在しなければ人権も同時に存在しないもの真実です。従って、国歌や国旗に反対している親の理論は矛盾していると断言できます。

 

百歩譲って、国歌斉唱や国旗掲揚を思想信条から行わない事は理解できますが、これをもって、思想信条が違う人々に、国歌斉唱や国旗掲揚の中止を強制するのは如何なものかと思います。これこそ、他の人の「思想信条の自由」を侵しているとは思いませんか?

 

それでも、この様なことを書くと「軍靴の足音が聞こえる」という人が現れますが、そろそろ、アメリカの占領政策の一環として行われた思想統制(マインドコントロール)から目を覚ましてはいかかですか。

 

昭和天皇

しかしながら、太平洋戦争は、軍部が「天皇」の名によって戦争を開始したのは事実であり、この為に、日本の占領政策において、一番最初に処理すべき事項は、昭和天皇の処遇でした。

何故なら、昭和天皇は、国歌や国旗と同様に、現人神として日本そのものであったからです。

 

日本をポツダム宣言により日本占領統治する立場にある極東委員会(決定に拒否権を持つ米・英・ソ・中他、拒否権を持たない7カ国代表からなる最高政策決定機関)内においても、昭和天皇を戦争指導者として訴追しようとする声が上がります。

 

しかし、唯一日本で占領政策を実施していたアメリカ軍及びアメリカ合衆国は、昭和天皇の占領政策における有用性に目をつけます。

つまり、極東委員会が実質的に組織として動き出し、拒否権を持つイギリス、ソ連、中国が動き出す前に、日本占領において優位な地位を得るためにも、昭和天皇の存在は大きなものでした。

 

何よりも、天皇の命令により、いままで頑強に抵抗していた日本軍が、借りてきた猫のように従順になり、わずか60日間で一件の抵抗闘争もなく武装解除されたこともアメリカを驚愕させていました。また、アメリカは、敗戦になっても天皇は依然として権威がある事にも驚きを隠せませんでした。

 

また、日本の占領政策を成功させ、大統領選へ打って出ようとしていたマッカーサー元帥にとっても、天皇と言う存在は欠かせないものでした。

 

1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送の後、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、戦争犯罪人として裁かれることでした。「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといわれています。

 

そして、それを直ぐに行動に移します。

マッカーサー元帥が、日本に到着し占領政策を開始してすぐに、当時外務大臣であった吉田茂にマッカーサー元帥と会いたいと意向を述べられます。マッカーサー元帥は、天皇の自尊心を傷つけたり、困らせることがあってはならないとして、アメリカ大使公邸での会見を告げます。

 

かくして運命のマッカーサー元帥と昭和天皇の歴史的な第1回目の会見が、昭和20年(1945)9月27日に行われます。

 

9月27日午前10時。シルクハットにモーニングの正装の昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使公邸の門を潜りました。昭和天皇ご自身は、この会見の重要性を十分認識しており、自分に日本人と皇族の運命がこの会見にかかっていることを承知されていました。

 

公邸玄関にマッカーサーの姿はなく、2人の副官が出迎えます。マッカーサーはレセプションルームで天皇を出迎え、奥の部屋に案内しました。会見が始まる前、写真撮影があり、その中の一枚が教科書にも載っている、あの写真です。

この写真は、後に、GHQの指導により国内で報道されます。これは、現人神であった昭和天皇が人間であること、そして、GHQが日本を統治することを、日本国民に分からせるためだったともいわれています。

 

写真撮影後、2人の会見が始まりました。そこでどんな会話が交わされたのか、公式の記録は残っていません。何故なら、この会見は、マッカーサー元帥、昭和天皇とそれぞれの通訳のみで行われ会話一切が非公開とされていたからです。

 

しかし、後にマッカーサー元帥は、自身が書いた回顧録の第5部日本占領の「天皇との会見」の部分で、以下の様に書かれています。

 

「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」

 

とは言っても、上の「マッカーサー回顧録」は、やや感傷的な記述も目立つ資料であり、歴史書としては、いささか疑問のあるものですが。

 

この時に通訳として同伴していた奥村勝蔵氏がまとめた天皇の発言のメモを、翌日、藤田侍従長が目を通しており、藤田氏は回想録にこう記しています。

 

「陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』」一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。

 

恐らく、こちらの資料の方が、真実に近いものであったと思われます。

 

昭和天皇は、この会見の内容を公表しないようにしますが、海外の報道機関にこの時の状況や昭和天皇の発言が報道されることとなります。

 

当初は、通訳であった奥村勝蔵氏が疑われ外務省情報部長の職を懲戒免官処分となりましたが、その後、もらしたのは別人と判明したため復帰が許されます。

 

奥村勝蔵氏は、最晩年の1975年(昭和50年)9月、会見内容漏洩の件について「天皇に誤解されていては自分は死にきれない」と、死の床にのぞんで昭和天皇にお伺いをいただくよう、懇願します。

これに対して昭和天皇は、「奥村には全然罪はない、白洲(白洲次郎)がすべてわるい、だから吉田(吉田茂)が白洲をアメリカ大使にすゝめたが、アメリカはアグレマン(許可)をくれなかつた」と述べて、奥村に非はないと承知していることを示します。(「入江相政日記」、1975年(昭和50年)9月10日付 引用)

 

 

真実はどうであれ、マッカーサー元帥が、昭和天皇との会見でその態度に驚いたことは、確かであり、マッカーサー元帥は、この後、昭和天皇を守り通します。

また、翌年には、極東委員会が拒否権を持つ前に、日本国憲法を制定させ、第1条で天皇を国の象徴とすることにより、天皇制の維持を確実なものとさせます。

 

また、昭和天皇のお言葉の最期の部分である「この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」により、ララ(英語: LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体またはアジア救済連盟)が提供していた日本向けの援助物資をGHQの支援の下展開されます。

 

1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までの間、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となります。その救援総額は不明ですが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったといわれていています。

 

このララ物資のうち食料は1,391か所の児童福祉施設,177か所の高齢者施設,263か所の国立病院及び国立療養所,その他結核病院の計17万人に配られます。衣料,その他の物資の配分は上記の他に母子寮,引揚戦災者寮,一般生活困窮者,災害罹災者等に必要に応じて400万人以上に分配され多くの日本人が、戦後の困窮から救われています。

 

1946年(昭和21年)1月1日に昭和天皇は、新日本建設に関する詔書(しょうしょ)を発します。これは、「人間宣言」と言われているもので、自らの神性を否定したものでした。

 

また、昭和天皇自身の発案により、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸を行います。

 

これは、戦争からの復興において、天皇や日本国に対する忠誠心のようなものを高めて、共産主義運動を抑え、ひいては今の体制を維持して国を守るため、自分も役割を果たしたいという昭和天皇の強い考えが見て取れます。

 

真珠湾攻撃により日本の「パンドラの箱」が、開かれ、それにより多くの人が、この戦争により傷つき死んでいきましたが、パンドラの箱に唯一残されていたエルピスは、もしかしたら昭和天皇だったのかもしれません。

 

吉田茂

吉田茂は、その風貌から「日本のチャーチル」と言われた政治家です。

 

 

1948年10月から政権を担っていた自由党の吉田茂はGHQと議論を重ね、日本独立の道を探ります。吉田茂はあまりに性急に独立を急ぐと、連合国から領土割譲や多額の賠償を求められるかもしれないと懸念しました。そこで、急いで独立せずGHQの指令に従いつつ、講和・独立のチャンスを狙います。

1950年に朝鮮戦争が起きるとアメリカは日本に再軍備を要求しました。吉田は再軍備が経済復興の妨げになると考え、憲法9条などを持ち出しながら、アメリカと交渉を継続。その結果、最小限の抑止力として警察予備隊を発足させることで折り合いをつけることに成功します。

アメリカとの妥協を成り立たせた吉田茂は、1951年のサンフランシスコ平和条約締結にこぎつけ、日本は独立を回復することができました。

 

吉田茂については、「傲慢でわがまま」と「ユーモラスで毒舌家」の二つの顔を自在に使い分け、敗戦後の日本独立に奔走します。

 

例えば、第二次世界大戦敗戦後、日本は復興に向けて、新たな総理大臣を決める必要がありました。吉田茂はその際、日本自由党という政党から総理就任を依頼されます。

当初、吉田茂は、それを断りますが、何度も説得されます。その為に、吉田茂は、「内閣の人事は自分の自由にする」「好きなときにやめる」を条件に、内閣総理大臣の職につきます。

 

吉田茂は、有言実行の人であり、この二つの条件、どちらも実際に行っています。

一番目の「人事」については、外交官から突然自由党総裁に就任することとなった吉田茂には戦後改革を遂行するうえで、自分の手足となる忠実な部下が欲していた事。さらに、吉田は党人派の議員たちの行政手腕や政策立案能力などに対し、強い不信感を抱き、戦後の混乱を収拾できる行政能力を高める必要性を感じていました。

 

その為に、「吉田学校」を作って、自らの政治基盤を支え、後進を育てます。

吉田茂は1949年の第24回衆議院議員総選挙に公職追放された旧勢力の公認候補の代わりとして、各省庁から自らの後輩にあたる有能な官僚を送り込み、結果総選挙に圧勝します。吉田はこれら吉田学校生らを強いリーダーシップで率い、戦後日本の政治体制の基礎を固めます。

 

因みにこの「吉田学校」の門下生には、池田勇人氏、佐藤栄作氏、鈴木善幸氏、田中角栄氏、大平正芳氏ら後の総理となる人物を登用しています。そして、吉田茂のお孫さんが、「けんか太郎」で有名な麻生太郎元内閣総理大臣です。

 

この麻生元首相ですが、意外と感じると思いますが、政界きってのサラブレッドです。

高祖父が大久保利通、祖父が吉田茂、義父が鈴木善幸元首相、妹が皇族の寬仁親王妃信子という華麗なる血脈を持っています。

 

次に「やめたいときにやめる」につては、1953年の衆議院予算委員会で、吉田は西村栄一議員との質疑応答にのぞみました。しつこく質疑を繰り返された吉田は腹を立て、西村議員と言いあいになったすえに「バカヤロー」と発言します。

怒鳴ったり叫んだわけではなく、小声でつぶやいたものでしたが、マイクがその声を拾っていたのです。バカヤローという言葉は大きな波紋を呼び、最終的には、衆議院が解散されるほどの事態となりました。これが、いわゆる「バカヤロー解散」です。

 

また、現在の政治家と比べて、人間的に大きいと思う箇所が、この吉田茂のユーモアと毒舌です。

 

第二次世界大戦のあとGHQの支配下にあった日本では、深刻な食糧難が長く続いていました。
吉田はマッカーサーに「国民が餓死してしまうため、急いで食べ物の支援をしてほしい」と要請します。吉田が求めた450トンの食料に対し、実際に届けられたのは70トン程度。
しかし70トンの食料でも餓死は出ず、むしろ食料は余っていたそうです。

 

これに対して、マッカーサーは「450トンも必要なかったじゃないか。どんな統計をとったんだ!」と吉田に抗議しました。

 

これに対する吉田の返答が、ユーモアにあふれています。

吉田は、マッカーサーに向かって「日本の統計が正確なら、あんな戦争なんてしませんよ。したとしても勝っていたはずです」と平然と言ってのけます。

この答に、さすがに怒っていたマッカーサーもつられて笑ったそうです。

 

イギリスのエリザベス女王にも、お洒落なユーモアを披露しています。
エリザベス女王が来日した際、女王は富士山を見ることをとても楽しみにしていました。

 

しかし、エリザベス女王は、運悪く雲が多く富士山を見ることができませんでした。

この時に、吉田茂は、「富士山は、自分より美しい人には顔を隠すのですよ」と、微笑みかけたと言われています。

 

また、この吉田茂の人間性を最も表しているのが、次の逸話です。

 

ある記者が、高齢になってもハキハキとしている吉田に健康の秘訣を尋ねたところ、

彼は「いいものを食べていますから」と答えます。
「いいものとは?」とさらに突っ込まれると、

「人を食っております」と言ってのけました。

 

つまり、「人を食っている」=図々しい言動をしたり、人を馬鹿にしたような態度。

 

この様に、吉田茂は、口が悪く人を食った政治家でしたが、彼だからこそ、占領下の日本を支え、そしてGHQにも負けずに日本の独立を勝ち得ることが出来たと思います。

 

白洲次郎

明治35年、白洲は兵庫県芦屋の実業家の家に生まれます。

子供の頃から喧嘩っ早く、型破りな少年であったと言われています。

19歳の時にイギリスに渡りケンブリッジ大学に入学。7年の留学期間中に、イギリス流のたしなみを身に付けます。

 

昭和4年、帰国した白洲は、伯爵・樺山家の令嬢「正子」と結婚することとなりますが、この結婚が縁で、白洲は正子の実家である樺山家と親しかった駐英大使・吉田茂と出会うことになります。

 

吉田は、白洲と出会って、白洲の中に吉田自身を見出していたのではないかといわれています。

白洲も幼いころから血気盛んで、頑固さや率直な物言いが目立ちました。この豪胆さはときに「傲慢」「傍若無人」と揶揄されていたといいます。こうした性格は吉田にも共通するものでした。吉田もまた頑固であり、不遜で傲慢だと評されることが多かったのです。
ともに歯に衣を着せず発言するふたりだからこそ、お互いを気に入りあい、親交を深めたと考えられます。

 

戦中は、隠遁生活を続けますが、戦後、外務大臣に就任した吉田茂は、GHQと日本政府の調整を任されるという立場におかれます。

この時に、吉田のたっての願いにより、片腕として抜擢されたのが白洲次郎でした。

 

かくして、白洲は、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任します。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめるようになります。

 

白洲は流暢な英語と物怖じしない態度で、GHQとの交渉に臨みその後6年にわたるGHQの占領のさなか、日本の独立の為に、吉田と共に二人三脚で奮闘します。

 

 

特に、憲法改正時の活躍や、経済安定本部次長に就任した際は、汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立します。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われるようになります。

 

そして、1950年(昭和25年)、連合国との講和問題で池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約締結の準備を開始します。

 

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行します。

首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったのですが、白洲が吉田が読むはずであった英文を見て激怒します。そこに書かれていたのは、GHQに対する美辞麗句を並べたものでした。

 

白洲は、吉田に「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したと言われています。

 

 

サンフランシスコ条約では、日本は千島列島と南樺太を放棄しています。しかし、放棄した千島列島には日本の領土とした北方四島(歯舞、色丹、国後、択捉)が含まれていませんでした。
しかしながら、サンフランシスコ条約自体にソ連は調印をしていないので、日本はサンフランシスコ条約上の権利を主張することができません。
そのため、現在まで日本とソ連(ロシア)の間で平和条約を結ぶ交渉が続いているのですが、実現していないため、北方領土をめぐる問題も解決に至っています。

 

また、サンフランシスコ平和条約の策定段階において、韓国はアメリカに対して日本が竹島を放棄するように求めます。しかし、これをアメリカが受け入れませんでした。サンフランシスコ平和条約においては、竹島は日本の領土であると認められいます。

 しかし、その後、当時の韓国の大統領であった李承晩が「海洋主権宣言」を行い、竹島を含む海域を一方的に韓国の領海に含めた「李承晩ライン」を設定し、現在の「竹島領有問題」となっています。(これには、GHQが暫定的に設定した国境(ライン)が大きく関係しているものと思われます。)

 

吉田の引退後、政界入りを打診されますが、、白洲本人は、通商産業省の設立を見届けると、政治の世界からきっぱりと姿を消しています。この潔さ良さから、いつしか白洲は「風の男」と呼ばれるようになります。民間経済界で活躍した後の昭和60年(1985年)、「葬式無用、戒名不要」というユニークな遺言を遺し83歳で亡くなります。

 

GHQと戦った吉田茂や白洲次郎を調べてみると、政治家に真に必要なのは、共感力、胆力そして最も必要なのは、こびへつらうのではなく自分を信じて果敢に挑戦することではないかと思います。しかし、政界は、現状は逸れに遠く及ばない状況となっています。、

 

そんなことを考えて観ると、どうしても前の大河ドラマ「どうする家康」の北川景子さんが演じた淀殿が最後に言った言葉である、
 

「日ノ本か。つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み、あざける。優しくて、卑屈なか弱き者たちの国に。己の夢と野心のために、形振(なりふり)構わず力のみを信じて戦い抜く!かつて、この国の荒れ野を駆け巡った者たちは、もう現れまい。」
 

が思い出されます。

 

次回は、GHQと日本国憲法の制定について書きたいと思います。