太平洋戦争、日本敗戦及び敗戦処理、そして日本国憲法 5 | meaw222のブログ

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今日は、「太平洋戦争、日本敗戦及び敗戦処理、そして日本国憲法 その5」として日本国憲法について書きたいと思います。

 

実は、本当に書きたかったのは、この日本国憲法についてでした。

この日本国憲法は、その成立過程により誤った認識による間違いだらけの論争が為されています。例えば、日本国憲法はアメリカから押し付けられた憲法であるとか、わずか9日間で作られた継ぎ接ぎだらけの憲法などと言われています。

 

しかし、この論争は不確かな情報によって行われており、その成立の過程をじっくりと見ていくと、実は非常に興味深く、そして、世界に冠たる平和憲法であることが分かります。(これは別に「日本アゲ」しているわけではなく、日本国憲法の書かれている文言の由来等を見ればよくわかります。)

 

さて、本題に入る前に、この日本国憲法制定までの過程を見る上で必要となる「GHQ」について書きたいと思います。

 

 

  GHQとは

 

GHQとは、General Headquatersの頭文字をとって名付られたもので、日本語では「総司令部」又は「進駐軍」と呼ばれる組織です。

 

このGHQの長が、連合国軍最高司令官(Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)と呼ばれ、このScapは、ダグラスマッカーサーが有名ですが、実は、もう一人マシュー・リッジウェイがいます。このマシュー・リッジウェイは、朝鮮戦争時の38°線まで中国人民志願軍を撤退させたのでも有名な米陸軍の軍人です。

 

日本本土の占領は、あくまでポツダム宣言の執行に基いたものです。戦勝国の11カ国から構成された極東委員会がこのGHQの上位組織として作られていましたが、その大多数を占めたイギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)と、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当していました。

 

しかし、実質上は、アメリカ占領軍が、連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、単独で占領政策を実施します。

 

結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遮断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はGHQSCAPの許可によってのみ行われます。降伏文書に基づき、間接統治ではありますが、天皇並びに日本国政府の統治権はアメリカ占領軍最高司令官の支配下におかれることとなります。

 

また、このGHQの費用は、全て日本が負担しており、これが日本政府に重くのしかかり、敗戦国家の国家予算を圧迫します。これは、サンフランシスコ講和条約により日本が独立した後も、米軍への「思いやり予算」という形で残っています。

 

GHQの組織

では、GHQの組織はどの様に構成されていたのかを見ていきたいと思います。

 

 

 

まず、上位組織である極東委員会(FEAC)、そして、その下部組織としてGHQの総司令官(SCAP)が、います。

この総司令官が、極東国際軍事裁判所と対日理事会を統括します。

この総司令官の下に参謀長が居り、参謀部と各外局(法務局、国際検察局、書記局、渉外局、外交局)を従えます。また、参謀長の下に副参謀長が配置されその業務を補助し、幕僚部(専門部)を統括しています。

 

このGHQは、日本において、戦争犯罪人の逮捕、公職追放、言論統制、非軍事化、民主化、農地改革、教育改革、医療改革等を行います。

ただし、漢字を排してローマ字のみとする政策は日本人の抵抗により中止されます。それと、朝鮮戦争が勃発し冷戦が顕著化すると非軍事化と公職追放についても中止されます。

 

このGHQの中で、特に力を持っていたのが、アメリカ国防省の影響下にある参謀第2部(G2)と、国務省の影響下にありルーズベルト政権時代の社会主義者が多く存在する民政局(GS)でした。

 

 

 

 

当初は、国務省の傘下であった民政局(GS)が、日本のほぼ全ての事柄を処理していましたが、朝鮮戦争により冷戦体制となると、レッドパージ(共産主義排除運動)が起こり、民政局の要員の殆どがニューディーラー(社会主義的な思想を持つ人々)であったためにその業務から外されて、国防省の傘下であるG2が、殆どの事務を受け継ぐこととなります。

 

参謀第2部(G2)

上の組織図を見ると分かると思いますが、G2は、当初、民間検閲支隊を下部組織として持っており、主に、言論統制を行っていました。

 

この言論統制を「プレスコード」といい、昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」として最高司令官(マッカーサー元帥)の名前で通達され、米太平洋陸軍総司令部民事検閲部がこの業務を実施しました。

 

米太平洋陸軍総司令部民事検閲部は、GHQの検閲スタッフが370名、日本人嘱託5700名で運営され、新聞記事の紙面すべてがチェックされていました。

 

そのチェック項目が、

 

① SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判

② 検閲制度への言及

③ 連合国への批判

④ 軍国主義、ナショナリズムの宣伝

⑤ 戦争犯罪人の正当化および擁護

 

これに違反したとされた場合には、廃棄、発禁処分が下されるようになります。

 

これは、形を変えた焚書であり、秦の焚書坑儒や、ナチス・ドイツの焚書と共に歴史的にも有名な言論統制の例となっています。

現在では、書物の他、レコード、写真、磁気テープ、ディスクメディアなども対象に含まれる場合があり、電子書籍に対して検閲、消去、改変、アクセス制限する行為を「デジタル焚書」と呼ぶことがあります。

 

このチェック項目で、特に興味深いのが、「占領軍兵士と日本女性との交渉」であり、占領下の多様な性暴力の実態と構造を覆い隠すのが目的ではと言われています。

その他にも、「中国・朝鮮人への批判」もこのチェック項目に含まれており、これが現在でもプレスコードとして残っているのではと思われます。(偏向報道の悪例)

 

幕僚部(民政局、民間情報局、民間情報教育局)

幕僚部(専門部)では、民政局(GS)とは別に、下部組織として民間情報局(CIS)があり、これは確実な証拠文書が有るわけではありませんが、このCISの実行部隊が「キャノン機関」と呼ばれる諜報組織です。

 

G2所属のキャノン少佐が中心となり、日本を占領下に置いたアメリカ軍やイギリス軍から構成されるGHQの情報部門を統括し、占領政策を行う上での情報収集のため、1949年(昭和24年)に密かに組織された情報機関であると言われています。

 

この「キャノン機関」は、1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)への関与も疑われおり、朝鮮戦争勃発後の「逆コース」時には、反共の機関として活動していたそうです。

 

1951年(昭和26年)、キャノン機関は作家の鹿地亘氏にソ連スパイの嫌疑をかけて長期間にわたり拉致監禁し、転向してアメリカの二重スパイになることを要求した鹿地事件を起こします。翌1952年に鹿地氏が解放され、事件が発覚することにより、この「キャノン機関」は消滅したとされています。

 

また、この幕僚部の組織で一部で問題化されているのが、民間情報教育局です。

この民間情報教育局( Civil Information and Education Section、略称はCIE)は、1945年9月22日に米太平洋陸軍総司令部に設置されます。日本と韓国の広報、教育、宗教など社会学的問題に関する施策を担当する専門部隊として同年10月2日に連合国軍最高司令官総司令(GHQ/SCAP) が正式発足するに伴って同組織に移管されます。

 

敗戦国日本における教育全般と文化に関する極めて広範囲にわたる諸改革を指導・監督します。同じく敗戦国であるドイツ、イタリアに比べ、日本への統制は非常に厳しかったと言われています。また、原爆投下や東京空襲などの教育ついても、民間情報教育局で厳しく制限されていたと言われています。

 

では、この民間情報教育局が一部で問題化されている理由ですが、それが「WGIP」(War Guilt Information Program)と言われている作戦の存在です。

 

GHQの当初の占領方針は、

 

① 「東京裁判」による日本有罪の強要と戦争犯罪人の処罰

② 憲法の制定など日本改造の断行

③ 日本を「戦争犯罪国家」に仕立て上げる事

 

でした。また、この中でも特に力が注がれたのが、日本軍が行ったとする“極悪非道”をことさらに強調する事とこの事を日本人自ら行わせ、そして継続させることでした。つまり、日本人に「自虐意識」を植え付けることでした。

 

そして、その方針の元、作成されたのが「WGIP」(War Guilt Information Program)と言われていますが、この作戦を記した公文書が未だに発見されておらず、その存在自体も疑わられています。(平成27年に、近現代史研究家の関野通夫氏によって文書そのものが発見され、月刊誌「正論」紙上で紹介されていますが、実際には、この様な公文書の原本は、未だ示されていません。)

 

では、この「WGIP」は存在しなかったのか?

 

実は、対日心理作戦を陣頭指揮した人物が上記の民間情報教育局(CIE)作戦課長に赴任し、その他にも対日心理作戦のプロたちがCIEの幹部に登用されています。つまり、この民間情報教育局の存在こそが「WGIP」その物だと言えます。

そして、この「WGIP」は、今も進行中ですが、当の日本人がこれを十分に理解しておらず、未だに、この時期に刷り込まれた「自虐精神」に囚われています。

 

  日本国憲法

占領政策の第2項目の「憲法の制定など日本改造の断行」で中心的な役割を担うのが、民政局でした。

この民政局を構成していた要員が、「ニューディール政策」で有名なルーズベルト大統領の息のかかった国務省の人間であり、殆どが、ニューディーラーと呼ばれる社会主義者たちでした。

これが、結果的には、日本憲法が、世界に冠たる平和憲法になった要因の一つと言えます。

 

民政局による日本国憲法草案の作成までの過程

GHQにとって、5大民主化指令(婦人参政権の付与、教育制度の自由化、財閥解体、農地改革、秘密警察など弾圧諸体制の廃止)などによる諸改革が進み、現人神である天皇制の解体が本格化するなか、最終的な大仕事が「憲法改正」でした。

 

1945年(昭和20年)10月、マッカーサーは、戦後最初の東久邇宮(ひがしくにみや)稔彦(なるひこ)内閣の近衛国務相と会見した際、憲法改正を「示唆」しますが、東久邇宮首相は、大日本帝国憲法を変えることなど全く考えておらず、この示唆を否定するかの如く総辞職します。

 

そこで、大正デモクラシーの時代、欧米との協調外交(幣原外交)で知られた幣原喜重郎が首相に就任します。マッカーサー元帥は、再びこの幣原首相に再度「憲法の自由主義化」を要求、すなわち帝国憲法の改正ではなく民主化された日本国憲法の作成を「指示」します。

 

これを受けて幣原首相は、1945年(昭和20年)10月27日、憲法担当大臣、松本烝治(じょうじ)法学博士(国務大臣)を委員長とし、憲法学者や官僚からなる憲法問題調査委員会(通称「松本委員会」)を設け、憲法改正に取り組みます。

 

松本委員会(松本試案)では、天皇の統治権を維持し、天皇中心の国家体制いわゆる国体護持を最優先課題に掲げます。改正作業は、大日本帝国憲法(明治憲法)の基本原則を変えず、帝国憲法の条文を部分的な修正をしながら議論を進めることにします。

 

この松本試案に基づいて作成された「憲法改正要綱」は、GHQに提出されるはずでしたが、提出前の1946(昭和21)年2月1日に、松本委員会の試案が毎日新聞にスクープされてしまいます。(リークは、この松本試案を潰すために意図的にされたというのが定説の様です。)

 

マッカーサーは、その試案内容を知り、明治憲法の根本原則が変えられず、天皇の統治権はそのまま認められていたことに不満を示し、「極めて保守的である」と批判します。

これにより、マッカーサーは、日本政府に憲法草案を作成させるのを諦め、2月3日、後に「マッカーサー・ノート」とも呼ばれる「マッカーサー3原則」を提示し、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草を指示します。

 

マッカーサー草案の作成

マッカーサーが、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに示した3原則が以下のものです。

 

① 天皇は国家の元首の地位にある(象徴天皇制)

② 国権の発動たる戦争は廃止する(交戦権の放棄)

③ 日本の封建制度は廃止される。(華族の廃止)

 

マッカーサー元帥は、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに対して上の3原則に基づいて、民主主義に基づいた日本国憲法の草案作りを、準備期間が僅か9日間、「リンカーン大統領の誕生日」の2月13日までに提出するように命じます。

 

これは、マッカーサーが、ソ連などが口を出してくる前に自分の手で日本の憲法の形を作り上げてしまおうと考えた為です。1か月後には極東委員会が正式に発足するために、天皇制の保持など自身の方針に修正を強いられることを懸念したためでした。

 

2月4日、GHQ民政局スタッフわずか25人余りが緊急招集され、マッカーサー草案(日本国憲法の原案)の策定が、日本政府だけでなく他のGHQの部署に対しても極秘に開始します。

 

ホイットニー民政局長は、実務責任者として陸軍大佐のチャールズ・L・ケーディスを任命、ケーディスは、スタッフを、取りまとめとしての「運営委員会」以下8分野ごとに受け持たせます。

 

他国の憲法を短時間で書くという歴史的な離れ業に携わった民政局スタッフの顔ぶれを見てみると、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉クラスの士官が13人、後は弁護士や学者を含む文官でしたが、憲法の専門家が一人もいませんでした。ホイットニー局長自身も弁護士でしたが、憲法についての実務的な知識に欠けたていたと言われています。

 

では、憲法が専門でない人間が、憲法の草案を作る場合、考えられるのが、現存する憲法から自分たちが気に入った条文を引き抜いて、切り貼りしながら草案を練ることでした。

 

実際、自国の合衆国独立宣言、南北戦争時のリンカーンのゲティスバーグ演説、合衆国憲法などから、また今も世界で最も民主的な憲法と評価されている第一次世界大戦後のドイツのワイマール憲法が引用されている部分を見つけることができます。

 

例えば、日本国憲法の前文は、驚くことにA.R.ハッシー海軍中佐が一人で書き上げますが、この中にリンカーンのゲティスバーグ演説の有名なくだり

 

—that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion—that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain—that this nation, under God, shall have a new birth of freedom—and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

(――それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を 尽くして身命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、我々が一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、我々がここで固く決意することである。)

 

「of the people, by the people, for the people, 」が、若干形を変えて、そのまま日本国憲法の前文に使われています。

因みに、その有名な文の前の、「the last full measure」とは、直訳すると「最後の全力を 尽くし」ですが、このゲティスバーグ演説の後、これは「戦争の犠牲になった兵士」と言う意味に変わります。

 

日本国憲法の前文の英文については、以下のリンクで見ることができます。

 

 

関心のある方は、確かめてみてください。

 

しかし、憲法学者でもない者が、他国の憲法を一から作り上げるのには、9日間という短時間では、物理的に不可能でした。

そこで、参考としたのが、日本の政党や民間団体の憲法草案などでした。その中でも、マッカーサー草案(GHQ草案)に大きな影響を与えたとされているのが、「憲法研究会」という団体が1945年12月末に発表した「憲法草案要綱」でした。

 

憲法研究会と鈴木安蔵

ホイットニー民政局長が、日本国憲法作成時に最も関心を示したのが、この憲法研究会がGHQに提出した憲法草案要綱でした。

 

この「憲法研究会」とは、元東京大学経済学部教授であった社会統計学者・高野岩三郎氏が、敗戦直後の1945年10月29日、日本文化人連盟の設立準備会の際、戦前から左派の立場で憲法史研究を続けていた鈴木安蔵氏(戦前、京都学連事件で検挙された憲法学者)に提起し、民間の憲法草案作成の為に発足された会です。

 

そして、この「憲法研究会」が出した「要綱」には、

「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」

 

社会主義的な学者である鈴木安蔵のこうした要綱は、同じくニューディーラー(社会主義者)の多い民政局員達との親和性が大きかったと思われます。

この「憲法研究会」から提出された要綱を見た、ホイットニー民政局長は、「これで憲法が作れる」と言ったと伝えられており、現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有しています。

 

一方、軍に関する規定は、松本氏の要綱では記載されておらず、平和思想の確立と国際協調の義務を定めるものの、押し付け憲法論議で焦点となる戦力や交戦権の放棄についての記述はなかったそうです。

 

では、日本国憲法の最大の特徴である戦争放棄条項である、第9条は、どのような経緯で生まれたのでしょうか。

 

 

憲法第9条 戦争の放棄誕生の秘話

世界に唯一、日本国憲法が持つ「戦争放棄条項である憲法第9条」の発案、同意、承認者となった「当事者」は誰であったのか?

 

1946年(昭和21年)3月7日の朝の各新聞は第一面に、「主権在民、戦争放棄」の大見出しで、「憲法改正草案要綱」を掲載し、この要綱とともに昭和天皇の勅語、幣原喜重郎総理大臣談話、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の全面的支持声明が掲載されます。

これからわかる様に、当事者としては、昭和天皇、幣原首相、マッカーサー元帥の三人が当事者であることは確実です。

 

当時、「三人の当事者」が、憲法9条発案に関する証言を公的な場では発言できず、また公式記録を残すことができなかったため、これまで発案者が「謎」とされてきました。

 

ただし、マッカーサー元帥だけは、日本国憲法が公布されて以後、公的な場での証言や演説、回想録のなかで「憲法九条の発案者は幣原首相であった」ことを述べています。

 

1946年(昭和21年)2月、マッカーサー元帥と幣原首相が会談を行い以下の通りに述べたと言われています。

 

「(幣原)首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構を一切もたないことをきめたい、と提案した。(中略)首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった」(マッカーサー『マッカーサー大戦回顧録』<中公文庫、2014年>456-457ページ)。

 

これを信じるならば、この第9条の発案者は、幣原首相という事になります。

 

しかし、幣原首相は、国際法上、独立国ならば当然持っている自衛権さえも放棄すると読める条項に、些か驚いた表情をしたという証言もあり、マッカーサー対戦回顧録に記されていたように、確かに、発案者は、幣原首相かもしれませんが、第9条の条項を作ったのは、恐らく、社会主義者で平和の理想に燃えた民政局員の誰かであった可能性が大です。

まさしく、日本国憲法第9条第1項には、左派のニューディーラーらしい表現が盛り込まれています。

 

当然、この自衛権の行使さえも放棄する内容ともとれる条項に対して、日本政府の大部分の人間が難色を示します。

 

 

然しながら、最終的には、幣原首相は、この平和条項である第9条を受け入れます。

幣原首相が、これを受け入れた理由は、マッカーサー元帥の回顧録に書かれていたように、経済再建の為に、金のかかる戦力を保持したくない為でもありましたが、本当の理由は、一つだけ、つまり、天皇制の保持の為でした。

 

なぜ「天皇制の維持」のために「戦争放棄」を宣言する必要があったのか。それを理解するためには、当時の国際情勢を知る必要があります。

 

もともとアメリカは、日本の占領統治をより円滑に進めるため、天皇制を維持する意向でしたが、ソ連、中国、オーストラリア、ニュージーランドなどの連合国諸国は、日本の軍事的脅威の再来を懸念するあまり、あくまで天皇制廃止を要請する構えであった。このような国際情勢について、外交官出身で国際感覚に優れた幣原首相は、次のように言っています。

 

「幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持ちを持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起こった。それは濠洲やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。恐るべきは『皇軍』である。という訳で、これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立化する恐れがあった」(憲法調査会事務局「幣原先生から聴取した戦争抛棄条項等の生まれた事情について」鉄筆文庫『日本国憲法 ―憲法九条に込められた魂』<鉄筆、2016年>141-142ページ)

 

つまり、天皇制を維持するためには、戦力を放棄するほかなかったという事です。戦争の放棄は、「平和主義の理想」と「天皇制の維持」をも実現するための一石二鳥の策だったのです。
 

日本国憲法の誕生

1946年(昭和21年)2月22日午前中、幣原内閣は、GHQ草案(マッカーサー草案)受け入れを閣議決定、天皇に事情説明の奏上を行い、天皇がこれを承認します。

 

幣原首相は、GHQ案受け入れを表明した後、2月26日の閣議では、マッカーサー草案を基にして、早急に政府案を作成するよう指示。GHQは、早急にマッカーサー草案に基いた日本政府の憲法草案を提出するように圧力をかけます。

 

これは、極東委員会の第1回会合が同2月26日ワシントン D.C.で開かれるためでした。GHQとしては、26日までに日本政府の起草を決定させる必要があったのです。

 

実際、26日、ワシントンで始まった極東委員会の第1回総会では、天皇制廃止の急先鋒であったオーストラリアも象徴天皇制と戦争放棄などを柱とするマッカーサー草案を読んで「日本の軍事的脅威がなくなれば、天皇を裁判にかける必要性もなくなったと」との見解を示し、昭和天皇の訴追論議は盛り上がらなかったと言われています。

これは、日本政府がマッカーサー草案に基いた日本国憲法の草案作りに合意していたということが、大きく影響しています。

 

3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、GHQにこの試案が提出され、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と日本政府の間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了、確定案(3月5日案)が作成されます。

 

3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表します。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表されます。

しかし、この発表は、アメリカ本国の総務省を驚かせます。何故なら、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなったからです。

 

しかし、マッカーサーは、極東委員会の「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請しますが、これをマッカーサーは、拒否し日本国憲法制定の日付を計画通り進めます。

 

1946年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、5月16日、第90回帝国議会が召集されます。

この会議において、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託されます。

8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成されます。

 

その後、GHQ案にも政府の改正案にもなかった現行25条第1項で定められている「生存権」(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)が付け加えられたりしました。また、GHQではなく、極東委員会からの要請によって、総理を含む大臣の資格として「文民統制(シビリアン・コントロール)」と呼ばれる条項(現行憲法の第66条/ 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。)も導入されました。

 

こうした経緯を経て、帝国憲法改正案は、8月24日には衆議院で、10月6日には貴族院でそれぞれ修正議決されました。そして、11月3日には日本国憲法として公布、翌年の5月3日に施行されます。

 

このように、日本国憲法とはGHQによって起草され、それを当時の日本人が苦渋のうちに、しかしながら「この外に行くべき途はない」という決意のもとに、選び取ったものでした。そして、その決断により、戦後の日本はかつてないほどの平和と安定、繁栄を手にすることになります。

 

 

憲法論争の真実と嘘

日本国憲法の成り立ちを踏まえたうえで、憲法論争の真実と嘘について書きたいと思います。

 

1 日本国憲法は、僅か9日間で作られたのか?

 

  これは、嘘です。

 

2 日本国憲法は、アメリカから押し付けられた憲法か?

 

  これは、或る意味本当です。

 

3 憲法第9条は、自衛隊を含むすべての軍事力を否定したものか?

 

  これは、非常に難しい問題であり、解釈により真実とも嘘ともとれます。

 

 

では、まず、第1項目についてですが、日本国憲法の柱である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義については、1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであると勧告しています。

 

また、このSWNCCは、1944年12月に、旧敵国の占領統治に当たる米軍が直面するであろう問題の予測と解決を目的として設立されていました。SWNCCは、米国の官界・学界の最高の専門家を結集して、計画の各部門を担当させ、日本においても既に天皇制、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義については話し合われていたと言われています。

 

つまり、かなり早い段階で、既に日本についての研究が始まり、すくなくとも、ポツダム宣言前には日本国憲法の基礎は作られていました。

 

第2項目は、GHQの長であったマッカーサーの存在が大きく影響しています。

何故なら、マッカーサーは、日本占領を成功に導き、その先に自身が大統領選に進出する野望を持っていました。

 

国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)とアメリカ合衆国国務省は、日本国憲法は少なくとも日本人の手によって作られ、GHQはその指導を行うものとされていました。

しかし、マッカーサーにとって日本占領の切り札とも言える天皇制が、極東委員会によって干渉される可能性が発生、焦ったマッカーサーは、GHQの押し付けとイメージされたとしても、天皇制維持の為に、GHQ主導の日本国憲法作成を強行します。

 

しかし、これを巡って国務省及びトルーマン大統領との間に亀裂が生じ、最終的に朝鮮戦争継続か否かで意見が対立し、トルーマン大統領は、一方的にマッカーサーを解任します。

 

1951 年4 月19 日、ワシントンDC の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行います。この演説で、マッカーサーは、有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ/「Old soldiers never die,They just fade away」」という言葉を残しています。

 

さて、憲法論争で一番の問題となるのが、この第9条の解釈の仕方です。

これは、「3月5日案」と「芦田修正」を比べてい見るとある程度、見えてきます。

 

憲法9条(3月5日案)
第1項 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。


第2項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条(芦田修正後)
第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

強調された部分が、修正後の現在の日本国憲法第9条となります。

 

第1項では、「国際紛争を解決する手段としては」という前提が入りますが、これは国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使-つまり「侵略戦争」を指すものと言えます。

そして、第2項では、第1項を受けてこの侵略戦争の為の戦力は保持しないことになります。

 

この解釈によると、国際上、独立国に与えられている自衛権は、日本国憲法では放棄していないことになり、自衛の為の軍隊、すなわち自衛隊は憲法上で保障された自衛権となります。

 

事実、芦田均氏は、憲法制定から10年以上経過した後の憲法調査会において「自衛のための戦力を持つことができるようにするため(自衛戦争ができるようにするため)」に9条2項の文頭に「前項の目的を達するため」という文章を挿入したと証言しています。

 

しかしながら、この論争を複雑にしているのは、当該の芦田均氏が、憲法9条は侵略戦争だけでなく自衛戦争も含めたすべての戦争を放棄する世界で最初の憲法だと帝国議会の衆議院で説明していたことです。

 

もっと具体的に説明すると、9条2項に「前項の目的を達するため」と入れた趣旨が、1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文章を入れたので、その「世界平和の実現」という目的を達成させるために世界に先駆けて戦力の不保持と交戦権の否認を宣言するためであったと説明していたのです。

 

この為に、最も被害を受けているのは、当の「自衛の為の必要最小限度の実力」をもった自衛隊という組織です。

 

自衛隊が、その実力を行使するには、刑法第36条、37条に規定されている「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」及び「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為」の場合のみとなります。(後に、自衛隊法 第95条第1項「武器防護等の為の武器使用」が認められます。)

 

つまり、敵が目の前で発砲又はミサイル等が発射され、それが国民の生命財産に多大な被害が及ぶことが予想される場合を除き、実力行使ができないようになっています。

 

具体的に言うと、憲法は、又は日本政府は、自衛官に対して命を懸けて国民の盾となる事を強要しています。

 

自衛隊に入隊するときに、「服務の宣誓」を行います。

 

私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 

この宣誓が、今の自衛官の置かれた環境が示されています。

 

2016年(平成28年)には、「重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」により、自衛隊法が一部改正されています。

日本国憲法が、制定されもうすぐ80年となりますが、この間、世界情勢は大きく変化し、それに伴って、この様に憲法が拡大解釈されつつあります。

 

従って、この様などちらとも解釈できる曖昧な条文ではなく、護憲、改憲の両面から見て、ハッキリした条文に書き換える必要があるのではと、個人的には感じています。

 

最後に、現在の世界の状況を鑑みると、「すべての戦争は、(侵略目的ではなく)自衛の目的で始められる」という有名な文言がありますが、護憲派も改憲派もこの文言を良く噛み締める時がきたのではと思います。

 

また、国際法とは、文明諸国家相互間の関係で、国家行為を拘束する規則または原則の一体であると定義されています。そして国際法は成文化されたもの(条約)と慣習によって成り立つ不文のもの(慣習法)、法の一般原則(世界の主要法系諸国の国内法で共通に認められている原則のうち、国際関係にも適用可能なもの)によって成り立っています。

 

つまり、国際法は、締結された条約だけでなく、広く一般に認められた慣習法と言うのもがあり、一国の国内法(憲法)だけで規定できるものではないと言えます。

 

P.S.

今日書いた事柄は、非常にセンシティブな事項です。

個人的にこの文章で言いたかったことは、護憲、改憲、右派、左派のすべての意見を尊重するもので、特定の個人団体を非難又は否定するものではありません。

この趣旨を十分にご理解していただきたいと願っています。