太平洋戦争、日本敗戦と敗戦処理、そして日本国憲法3 | meaw222のブログ

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前回は、太平洋戦争、日本敗戦と連合国側からみた敗戦処理について書きました。

 

今日は、日本側からみた敗戦処理について書きます。

 

日本が、敗戦処理を行う上で必要なのは、何故、軍部が暴走して無謀な戦争を引き起こしたのかを明らかにすることでした。

 

実は、これについては、大日本帝国憲法の持っていた欠点が、浮き彫りになった結果でした。

その欠点とは、「統帥権」であり、それにより引き起こされた「統帥権の干犯(かんぱん)」が、日本を亡国寸前まで追い詰めた最大の原因でした。

 

統帥権とは

まず、この統帥権の規定は、大日本帝国憲法の第11条、第12条に規定されています。

 

 

次に、戦争前の政府制度は、以下の様に規定されていました。

 

 

司法は、大審院が担当し、立法は、帝国議会が。そして行政全般は元老(薩摩藩、長州藩出身の政治家、天皇の顧問)が天皇の補佐(統帥権の助言)をしていました。

元老が引退すると、これが、司法・立法・行政・統帥(軍令)の四権分立となり、それぞれの所掌によって所掌の範囲内で統帥権が行使されることとなります。(現在の様に、内閣総理大臣が行政一般を代表する仕組みではありませんでした。)

 

しかし、国務大臣(首相)は、天皇に輔弼(ほしつ/助言)する立場でしたが、憲法上、統帥権(第11条/軍隊の運用)の輔弼は国務大臣の輔弼の管轄外となり、軍令部(陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長)の輔弼を受けることとされていました。

(因みに、憲法上では、帝国議会は、天皇に「翼賛」。軍令部は、「輔翼」することとなっていますが、用語は違いますが、どれも助言することです。)

 

従って、統帥(軍事行動)に関する事項は首相を経ずにこれらの軍令機関が直接上奏し、国務に関連するものについては陸海軍大臣が首相に報告されていました。

この制度が、後に、一般民政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏(いあくじょうそう/軍部(軍令部)が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること)をするようになり、結果的に軍部の暴走を招きます。

 

さらに、憲法第3条において天皇は「神聖不可侵」とされており、国務上の決定による影響が天皇に累が及ぶのを避けるため、輔弼者は決定による責任の一切を負うことになります。(「君臨すれども統治せず」の精神)これも、軍部の独走という現象を引き起こすこととなります。

特に、挙国一致内閣(軍国主義政治)となったのちは、天皇は、実質的には各国務大臣の任命、罷免権のみで、「神聖不可侵」の原則により口出しができない状態でした。)

 

世界恐慌、高橋財政、ロンドン海軍軍縮条約

1929年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落に端を発し、1929年10月24日の株式市場の暴落(通称暗黒の木曜日)で全世界のGNPが推定15%減少しデフレスパイラルの嵐が世界を駆け抜けます。これが、世界恐慌と呼ばれるものです。(因みに2008年の大不況(リーマンショック)時は、世界のGNPの約1%の減少であり、どれだけ世界恐慌が大きなものか分かります。)

 

日本は、この難局を乗り切るために、高橋是清(たかはしこれきよ)を大蔵大臣として登用し、経済対策を打ち出します。この高橋是清は、別称”だるまさん”と呼ばれ、後に総理大臣(首相)も務めていますが、大蔵大臣として有名な人物であり、日露戦争時に国債を米英等に発行し戦費を取得し、日露戦争の勝利に大きく貢献した人物です。

 

この高橋是清が、世界恐慌(デフレスパイラル)から脱却するために、

 

① 金輸出再禁止

② 史上初の国債の日銀引き受けによる政府支出の増額

③ 景気対策を目的とする公共事業(土木事業、一部軍事産業)

 

を行います。これが高橋財政と呼ばれるもので、ケインズが、後の世界経済の基本理論となる「有効需要の理論」(後のMMT理論/現代化貨幣理論)に到達したのとほぼ同時期であり、高橋是清は、ケインズのこの理論を世界に先駆けて実施します。この高橋財政により、日本は最速で世界恐慌から抜け出すこととなります。

 

しかし、日本は、世界恐慌によるデフレスパイラルから抜け出ますが、今度はインフレが発生し価格が高騰することとなります。

世界も日本に遅れて世界恐慌から回復し、どの国も今度はインフレに悩まされることとなります。

そこで、各国は、今度は財政引き締めに向かいます。そして、各国とも最も財政を圧迫していた軍拡競争(軍事予算)を制限することにより、インフレの鎮静化を目指すこととなります。

 

かくして、1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮会議が開催され、日本、イギリス、フランス、イタリア、およびアメリカ合衆国により、水上艦の数を米英が1、日本が0.7とすることで合意されます。

 

統帥権の干犯

このロンドン海軍軍縮会議とロンドン軍縮条約の批准において、条約を締結しようとする内閣と海軍の間で亀裂が生じることとなります。

 

海軍には、この戦いにある秘策がありました。それが、「統帥権」でした。

統帥権とは天皇が軍の指揮や監督をする権利ですが、海軍は、その権利は陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長が代わりに受け持つと主張します。

 

 

上の図は、天皇の持つ「統帥権」を補助する部署を示したものですが、今回のロンドン海軍軍縮条約は、上の「軍の編成」に関わる事項であり、一義的には、海軍大臣が、この「軍の編成」を担当する人物となりますが、海軍大臣は、あくまで首相を長とする内閣の一員であり、また、帝国議会の承認を必要とする事項でした。

 

ところが、憲法では、「統帥権」については、陸海大臣、参謀総長、軍令部総長がもつときっちりと決められていましたが、内閣のことは全く書かれておらず、内閣は一応天皇の補佐をする役職とだけしか書かれていませんでした。つまり、天皇が統帥権すべてを有している主権者であり、解釈によっては、日本の首相は命令はできるけどそれを決めるという権限は全くないという事です。これが、大日本帝国憲法の最大の欠点でした。

 

そのため、海軍はこの統帥権を引っ張り出して「この条約を締結することは天皇が持っている統帥権を侵害(干犯)している!これは憲法違反だ!」と反対します。

さらに、当時の野党であった政友会の犬養毅と鳩山一郎もこの統帥権を引っ張り出して「濱口雄幸首相は統帥権を干犯している!」と議会で発言したのでした。

 

これに対して、濱口雄幸は「たしかに、最終的な決定権があるのは天皇陛下だが、天皇の補佐を任されている首相が条約を結んで何が悪い。ならば外務大臣が外交を行うことも天皇大権の干犯なのか!」と堂々と反論します。

 

かくして、さまざまな曲折を経て、1930年10月1日の枢密院本会議は、満場一致で条約を可決し、翌日の10月2日、正式に条約が批准されます。

 

濱口雄幸首相の襲撃と軍国主義化

ロンドン海軍軍縮条約を無理矢理締結した濱口雄幸。

これにより問題は終結したかのようでしたが、この為に軍部や右翼勢力から敵視されるようになり、ロンドン海軍軍縮条約直後に東京駅にて襲撃を受けます。

 

濱口首相は命こそ取り留めましたが、銃撃の傷は深く、1931年4月には首相を辞任。民政党の若槻禮次郎(わかつきれいじろう)が、首相となります。(濱口首相は、この傷が元で10か月後に死亡します。)しかし、就任直後に、関東軍が暴発して満州事変が勃発し、この責任を取って辞任。

 

この若槻首相の後任として首相に就任したのが、「統帥権の干犯」に関係した犬養毅でした。

犬養首相は、軍部とは良好な関係を保ちますが、世界恐慌により、経済が縮小しており、かつ、農産物の価格が下落し、とくに生糸の対米輸出の激減によってまゆの価格が暴落。そのうえ、都市の失業者が農村にもどったため、農家の困窮はひどいものでした。地方によっては欠食児童や女性の身売りがみられ、とくに東北地方では不況に凶作と津波がかさなり、困窮はいっそうきびしさを増しました。

 

この状況を打開するために、海軍の青年将校と陸軍士官候補生が中心となって、1932年(昭和7年)5月15日に海軍の青年将校たちが首相官邸などを襲い、犬養首相を殺害。

これが、「五・一五事件」と言われるものです。犬養首相の暗殺により日本の政党政治は終わりを迎えることとなり、内閣は軍部に対して何も言えなくなってどんどん弱体化。(軍事クーデターとしては、226事件もありますが、この事件は主に陸軍内の組織及び派閥に起因した事件ですので、実際には、軍国主義化とはやや意味合いが違います。)

 

 

軍部の一連の事件により「軍部は天皇以外止めることができない独立した組織」と考えるようになり、軍事主義化が進行し、日中戦争に突入。

 

軍部の暴走と天皇

1941年(昭和16年)9月6日、太平洋戦争遂行における御前会議が開催されます。

この会議で天皇は、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じます。その際、以下の明治天皇の御歌が引用されています。

 

四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ

 

一般的にこの歌は軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だと解されています。

これで、戦争は回避されたかの様に見えましたが、同年、10月17日に、東条英機が首班として選ばれ内閣を組閣します。

 

この東条英機は、陸軍大臣でありながら首相を兼任するといった、言うなれば「挙国一致政府」となり、日本は全面戦争に突入することとなります。

 

しかし、前にも書いたように、無謀な戦争は敗戦と言う形で幕を引くととなります。

 

 

聖断と終戦

かくして、悲惨な戦争を終了させるために、1945年(昭和20年)8月10日と14日に首相であった鈴木貫太郎から乞われる形で「聖断」を行います。

 

この聖断とは、天皇の意思で行った重要な政治的決定のことで、明治天皇から昭和天皇までに下された聖断は、「王政復古の大号令」「征韓論の裁定」「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)、「二・二六事件」「ポツダム宣言受諾」の僅か5回のみです。

 

 

日本による敗戦処理を語る上でのキーワードである、「統帥権」「統帥権の干犯」「昭和天皇」「護憲政治」を書きましたが、意外と内容が深く、説明が長くなってしまいました。

また、前々回の「太平洋戦争」の所で抜けがあったことも気づき、補足していたら思いのほか長文となったために、今回はここまでとして、次回に本題である「日本政府による敗戦処理」について書きたいと思います。