ひぐらし鳴いて、しんみり。

 坂道下ればゆうげのにおい。アザミの綿毛がふわりと飛んで。伸びた影が薄暮に溶けてまどろみを誘う。金の輪で遊ぶ子ども。心地よい音色をたててまわしてる。背負ったリュックの中身が重い。履き潰した靴はすっかり色褪せて、すり減った靴底、よく滑る。夕日に輝く金の輪、触れ合う度、鈴の音のような音響かせて。坂の下の町並み、団欒の灯りをともして。
 少年よ、君にその灯りが見えるか。ゆうげのにおいは届いているか。母の呼ぶ声は聞こえているか。

 ひぐらし鳴き止んで、静寂。

 日、没して、シグナルは赤。丸いヘッドライト一列に並んで静止。車内にはケーキ屋の包み。ショートケーキが二つ。妻と子へ。あなたのこどもはいま、ピアノを弾いている。一日の終わりに手習いをひとつ。重くなった瞼に、回らない舌。鼻だけはいやに敏感で、右手にはリングをひとつ。シグナルが青に変わって仄暗い部屋へ。閉じたカーテンはサイズが合っていない。
 あなたの代わりに悲しみ抱いて、ベットに入る。鍵盤の蓋が閉じられてショートケーキの上の苺がはじける。遠く、うつつを離れて、金の輪が触れ合う音がきこえた。





 真新しいサンダルに足を通して。足の甲だけいやに白いのを眺めながら、梅雨雲りの中を歩く。雲の流れは速く、木立は風に揺れている。傘、持ってくればよかったかな、なんて考える。いったん引き返そうかと思う。でも、もう引き返すには遅すぎるんだろうな、とも思う。

 往来の少ない住宅街を歩く。綺麗なお家が立ち並ぶ。庭はきちんと手入れが施されていて、少しこの土地には不釣り合いにも思える家並み。庭先からはラベンダーが道に飛び出していて。私は左手を伸ばしてラベンダーをそっと撫でる。左手にはほんのりと香りが移る。しばらく左手に残る香りを嗅ぎながら歩く。

 慣れないことをしているなと感じる。右足が少し痛い。靴擦れしたんだ、そう思いつつも歩き続ける。痛いのはいくら我慢しても収まることはなくて、むしろひどくなる。坂道の途中でついに立ち止まる。塀に手をかけてサンダルを脱ぐ。みるとやはり靴擦れしていて。雨粒よりも小さな傷。だけど酷く痛む。鞄から絆創膏を取り出して、しゃがむ。小さな傷は絆創膏ですっぽりと隠れた。そしてまたサンダルを履き直す。ちらりと見える絆創膏が不格好で、やっぱり下手なことはするものではないなと思う。
 ふと顔を上げると道の反対に紫陽花が咲いていた。色とりどりの紫陽花。鮮やかなものもいれば、淡いものもいた。色の薄いものも日を経るにつれて色味を増していくのだろう。なんとなくうらやましく思えた。

 立ち上がり、紫陽花に近づこうとする。アスファルトに黒い染みが現れていくのに気がつく。ぽつぽつと丸い染みは増えていき水玉模様のようになる。強くなる雨脚の中、空を見上げて、家に置いてきた藤色の傘を想った。左手についた香りはもう消えていた。



 帰り道、花が一房、落ちていた。小さな白い花が珠のように房をなしていた。いったいどこからきたのか、それらしい花は近くには咲いていなかった。

 六月生まれの君は梅雨が嫌いだと言った。僕はそれをカレンダーを見る度に思い出す。六畳間の僕の部屋に掛けられたカレンダー、それにも君の言う通り、雨が降っていた。六月と言えば雨、というのが嫌だと君は言う。ロングスカートをはいた君が階段を上るとき、スカートをやさしく摘みあげる仕草が目に焼き付いている。紫陽花も好きではないときいたときは悲しかった。けれどナメクジがいるからだという理由をきいて思わず笑った。そのとき君は藤色の傘をさして歩いていた。

 花を拾おうかと思ったけれど、しなかった。花を持ち歩くなんて似合わないと思ったから。それでもただ、綺麗だなと思った。手のひらの中にすっぽりと収まってしまうほどの大きさで、なんとなくコサージュにしたらどうだろうと思った。君の左胸についていたらきっとすてきだろうと思った。君はコサージュなどつける人だっただろうか。

 六月生まれの君はやっぱり傘をプレゼントされたことがあることだろう。もしかしたらあの藤色の傘もそうなのかもしれない。それなら紫陽花のコサージュなんてどうだろう。気に入ってくれるだろうか。コサージュならナメクジもいないから。紫陽花のこと、好きになってくれるだろうか。雨が似合っているなんて言ったらきっと機嫌を悪くするのだろう。そんなことを考えながら歩いていた、白い花の香りがした。そのまま君のことを考え続けた。