蝉時雨のち、ひぐらし。

 夕暮れの風が部屋の中を通り抜けていく。レースのカーテンがふわりと膨らんではしぼんでいく。窓際にごろんと寝転がる。はしたないと咎める人はもういない。お盆を過ぎたというのに窓の外の景色はまだ夏を装ったままで。

 夏はいい。思い出がなにもないから、いい。何も思い出さずに済む。無色、透明な季節。時折吹く風が風鈴を鳴らす。その度にカーテンが私の体をそっと撫でていく。心地よさにまどろむ。波打つ白にさらわれて汗ばんだ肌が涼しさを感じる。テーブルの上に置いたアイスコーヒーの中で氷が音をたてた。アイスコーヒーの入ったグラスも汗をかいている。汗の役割は温度調節だとか。なんとなく思い出す。氷はどんどんと溶けていってコーヒーを薄くしていき、ぬるくなってしまう。もう少し頑張ってよ、氷。なんて思う。無茶なこと。

 ひときわ強い風が吹き抜けて、カーテンは大きく膨らむ。風はやさしい。とても気持ちがいい。さっと髪が揺れて、汗が冷える。風が止んで、カーテンが窓に吸い寄せられる。そのときカーテンの端がそっと唇を撫でていって。思わずカーテンを掴む。するとまた風が吹いて引っ張られる。手を離すとカーテンはふわりと私の指の間をすり抜けていってしまった。グラスの下のコースターには水がたまって、溶け出した氷はみるみる小さくなって、枕代わりのクッションには染みがついて、風鈴の音は夕闇に溶けていった。全然、やさしくない。夏なんて、嫌い。





 照りつける陽射しが影を濃くしていく。滴る汗をハンカチで拭い、木陰に設けられたベンチに腰を下ろす。アイスキャンディを袋から取り出し、一口。蝉の声が近い。夏だなと思った。

 夏はいい。君との思い出がなにもないから、いい。まっさらな季節。なにをやっても新鮮だ。一緒にかき氷を食べたり、スイカを食べたりしよう。君を助手席に乗せて海までドライブしたっていい。君の好きなスピッツでも流しながら海沿いを走ろう。他にも花火を見に行ったり、お祭りに行ったりしようよ。まだどれも君としたことがない、初めてのこと。

 君は暑いのは嫌いだろうか。肌が焼けるのを嫌がるだろうか。そもそも夏は好きじゃないかもしれない。そうだとしたらどうしよう、不安になる。僕に君を楽しませることが出来るだろうか。笑ってくれるとうれしいな。

 晴れ渡った空と山の向こうに入道雲。アイスキャンディを食べ終えて立ち上がり、生温い風に吹かれてまた歩き出す。たとえ君が夏が苦手でもきっと僕が楽しませてあげるから。どうか夏を好きになって。もうすぐ、君の家に着きます。

 今日は雨は降らないみたいだから傘は置いていこう。麦わら帽子が君を待ってる。
 
 夏がそばに、君のすぐそばに





寝る間も惜しんで本を読み耽っていると、一抹の寂寥感がふっとわき上がってきて、何か起こらないかな、なんて期待しながら、外に出てみる。
あくびを一つ、ぶらぶらと手足をばたつかせながら、コンクリートの白線をなぞる。魚のようにぱくぱく呼吸して、何か、何かないかと、探し始める。何もなかった。コンビニまで行って、立ち読みをして、それからミネラルウォーターを一本買った。ついでに帰り道で、なんとなく日々を過ごしている自分自身について、考えた。

(安寧に身を委ね たゆたう水の流れのように日々を生きることについて
不鮮明な汚濁に目をそらしているだけで 終わりはそこにあるのにね
ただ面倒なだけだ 貪るという感覚に鈍感になっているだけだ それの何がいけない?
いけない
たゆたう水は 滑らかな水じゃなかった
静かに暮らすのは難しい 静かに暮らすためのこころが 難しい
濁流にのみ込まれて ぶくぶくと口から零れる気泡も 渦を巻く海水にかき消されていく
たぶん 怠惰な自分が嫌なだけなんだろう
そんな自分を甘やかしている自分が 嫌いなだけなんだろう
何か起こそうとして 何ができるだろう
何か起きたとして それに気付けるだろうか
待ちわびているから何も起きない 盲目だから気付かない
いつでも準備をしておくこと 運に備えること
運に備えること 目を見開いて
安寧に身を委ね たゆたう水のように
炭酸水の激流みたいな そんなものを待ち焦がれている)

くだらない、と思ってやめた。同時に、くだらないことこそが素晴らしいんだ、とも思った。
家に着いた。階段を踏み下し、上がり散らした。読んでいた本をわきに置いて、僕は原稿に一行目を綴った。