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たかあきらのブログ

郷ひろみ、ロック、小説、熟女が大好き

              逢えるかもしれない

 

1975年10月発売  売り上げ23.0万枚  オリコン最高4位

 

なんじゃこりゃー! 演歌じゃねーか!

確か当時この曲をプラスチック演歌と表していたような気がする。

この曲は、当時まだ20代だったはずの五木ひろしさんが歌った方がしっくりきそうだ。

郷ひろみも20歳になって大人の雰囲気も醸し出したい故の試行錯誤の中でのこの曲なんだろうけど、さすがに演歌はないんじゃないかな酒井プロデューサー。

 

スター誕生の沖縄大会で、野外の太陽の日差し溢れる中で、この暗っぽい曲を歌った郷ひろみ。

あの周りの風景と全然合わないミスマッチな光景をいまだに忘れる事ができない。

この「逢えるかもしれない」という曲を、郷ひろみ自身と他のファンの人達がどう思っているの

かは知らないが、私の中では、郷ひろみの軽い黒歴史だ。

 

そして、この年の年末の賞レースに郷ひろみは何とノミネートすらされないというショッキングな事件が起こる。 人気は相変わらずダントツで、この75年に発表した各シングルだってそれなりにヒットしていたのに・・・。 ノミネートの最後に郷ひろみの名前が呼ばれなかった時、TVの前で呆然となった自分を憶えている。 やはりあれは当時まだ中堅事務所で、そんなに芸能界に影響力のなかったジャニーズ事務所だが、事務所側からしたら後ろ足で砂をかけるように辞めていった郷ひろみに、裏で何とか画策して賞レースのノミネートを妨害したんだと私は今でも思っている。

 

 

  

              誘われてフラメンコ

 

1975年7月発売  売り上げ24.5万枚  オリコン最高2位

 

郷ひろみらしい曲だが、先輩御三家の西郷輝彦さんの大ヒット曲「星のフラメンコ」にあやかってのフラメンコ繋がりなのかな。 

この曲の思い出といえば、コンサートツアー内で元ジュニアらとミュージカルをやっていて、

そこで裸足で舞台のセットから飛び降りるシーンで足を骨折してしまい、夜のヒットスタジオでは椅子に座って歌ったという事がある。 骨折しても休めない人気スターの仕事は厳しい。

 

そして、郷ひろみ自身が少年から大人への過渡期に入ってきて、新御三家の野口五郎と西城秀樹は、最初から大人っぽい雰囲気も持ち合わせていたから、そんな過渡期もすんなり入っていけそうでも、郷ひろみはなかなか苦労しそうな気がしていた。

 

ところで私の姉は、デビュー直後から熱狂的な郷ひろみファンだったが、ジャニーズ事務所との

ゴタゴタでマスコミにいろいろ郷ひろみ批判を書かれ、それらを真に受けてしまって急速に郷ひろみへの興味を失くし見向きもしなくなってしまった。 ずっと姉といっしょに郷ひろみのレコードを聴き、歌番組を見ていた私は、ぽかんとあっけにとられながらも、何故か郷ひろみの出演するTVを見る事がやめられず、私は凄く郷ひろみのファンになっている自分に、ここで初めて気がついたのだった。

 

そして、月刊明星の毎年夏の恒例企画

1975年 明星オールスター人気投票 男性部門

第1位 郷ひろみ、2位 西城秀樹、3位 野口五郎、4位 ずうとるび、5位 豊川誕、6位 あいざき進也、7位 中村雅俊、8位 ジャニーズ・ジュニア・スペシャル、9位 ダウンタウン・ブギウギ・バンド、10位 フォーリーブス、

 

女性部門の第1位 桜田淳子、2位 山口百恵、3位 アグネス・チャン

 

 

               ジャズ / クイーン

 

70年代に日本でもNO.1の大人気だったクイーン。

クイーンは、70年代と80年代では音楽性が違ってくる。

その70年代でも初期のハードロック全面な時期と、後期のハードロックな部分も多少残しつつも、もっと幅広い音楽性で更に多くの支持を集めた時期とがある。

私は70年代のクイーンが好きだが、その中でも名盤「オペラ座の夜」と共に、この「ジャズ」

も大好きなアルバムだ。

 

さてこの「ジャズ」という大胆なタイトルのアルバム、音楽のジャンルのジャズという意味ではないらしい。 1曲目からいきなりフレディー・マーキュリーのアラブのお祈り?から始まり驚かされ、2曲目の「ファット・ボトムド・ガールズ」は、コーラスから入ってフレディーのパワフルなヴォーカルが心地いい。 そして、当時クイーンがロックバンド故に、その妙な軽さに賛否両論を巻き起こした「バイシクル・レース」、私も当時は否の方だったけど、聴き続けているうちに、そのユニークなポップセンスが好きになってしまった。 「レット・ミー・エンターテイン・ユー」は、ブライアン・メイのヘヴィなリフがカッコいい。 そして、「ドント・ストップ・ミー・ナウ」は、このアルバムの中で私の一番好きな曲だ。 

 

クイーンは、前2作「華麗なるレース」と「世界に捧ぐ」を、バンド自らがプロデュースして、どちらも非常にいいアルバムで私も好きだが、内容にメンバーの納得のいかない所があったのか、今回は再びロイ・トーマス・ベイカーをプロデューサーに迎えて、70年代の最後に素晴らしいアルバムを聴かせてくれた。

クイーンはトップの座に胡坐をかくことなく、常に挑戦し進化発展し続けようとした偉大な

バンドでロックファンの誇りだ。 

 

 

              花のように鳥のように

 

1975年4月発売  売り上げ24.3万枚  オリコン最高2位

 

バーニング・プロダクション移籍第一弾シングル。

んー悪い曲ではないと思うけど、私としては新しい事務所で心機一転、更なる飛躍をしようとする門出なんだし、もっとガツンとインパクトのある曲を出してほしかったんだけど。

それにこの頃、新御三家の野口五郎と西城秀樹が、クオリティーの高い楽曲を立て続けに出していた時だから、この曲では、ちょっと太刀打ちできないような気がした。

 

そして、郷ひろみと共にバーニング・プロへ移籍してきたジャニーズ・ジュニアの6人(後に

メッツとしてデビュー)。 74年の夏の全国ツアーで、ジュニア9人の中の3人をフォーリーブスのツアーに参加させ、残りの6人が郷ひろみのツアーに参加となった。 この頃から事務所内、ジュニア内で、フォーリーブスのツアーに参加した3人が近々レコードデビューするという噂が出ていたのだろう(後にこの3人でジャニーズ・ジュニア・スペシャルとしてデビュー)。

取り残された6人の方が疑心暗鬼になって、自分達は見捨てられたんだ、デビューできないんだと思ってしまったのかもしれない。 ここでもやはり事務所の残された6人に対するフォローがなかったのではないかと想像する。

 

話を郷ひろみに戻すが、ファンの多くの人が、郷ひろみがあのままジャニーズ事務所に在籍していたら、郷ひろみは70年代のアイドルスターで終わっていて現在の地位はなかっただろうと思っているはずだ。 そして、ジャニーズ事務所の方も80年代からのあそこまでの躍進はなかったのかもしれない。 だから、75年の移籍は両方にとって結果的にウィンウィンだったのだ。  

              わるい誘惑

 

1974年12月発売  売り上げ21.9万枚  オリコン最高5位

 

ジャニーズ時代最後のこの曲は、大ヒットした前作「よろしく哀愁」と曲調が似ている事もあり、「よろしく哀愁」の影に隠れて印象が薄いような感じがするが、なかなかメロディーも秀逸でとてもいい曲だと思う。 私は昔から大好きな曲だ。

 

この頃のアイドル雑誌の付録の歌本に、「郷ひろみはカッコいいが、40歳になった郷ひろみは

見たくない」みたいな事が書いてあったのを憶えているが、郷ひろみは44歳の時に自身の最大級のヒット曲を出し、アチチーと日本全国、老若男女にまで社会現象を引き起こし最高に光輝いていたんだが。 本当に74年当時のマスコミやファンにそう教えてやりたいよ。

 

さて、ジャニーズ事務所とのゴタゴタもあり、裏では事務所移籍に向けてバーニング・プロダクションとの話し合いが進められていた。 そして、最終的にジャニーズ事務所、バーニング・プロ、郷ひろみ同意の元に円満移籍が決まったという事にはなっているが、もちろん円満なわけはないだろう。 事務所の稼ぎ頭で郷ひろみほどの超逸材を、一から育てたジャニーさんが普通に考えたら手放すはずがなく、それを手放したというのは、同性愛者だと云われているジャニーさんが、自分の元から離れたいという愛する郷ひろみに対する愛憎渦巻く黒く歪んだ思いがあったのかもしれない。

 

そして、事務所の移籍が決まった後もジャニーズ事務所との契約が、75年の3月いっぱいまで

あり、その間の仕事を、周りのジャニーズのスタッフとも気持ち的に非常にやりづらく、仕事にも気合が入らないまま、消化試合のように淡々と残りのスケジュールをこなしていったと後の郷ひろみが語っていた。