日本で人々が「マスター」と呼び掛ける場合、そこは
だいたいがバーか喫茶店だと私は思っていた。
あれは私が某販売店で働きだした頃だったから38年ほど前になる。
当時の私は夜はスナックで働き、昼は販売店の事務員をしていた。
で、その販売店の上司に「Sや~ん(上司のみが呼ぶ私のあだ名)、夕飯行こうよ」
と言われ『なぜ関西的なあだ名で呼ばれるのだろう…』と軽く不快感を感じつつも
「はぃっす…」と、高倉健さんの表情で頷き、上司の車に乗り込んだ。
車中で上司は「他店の店長達なんだけど~Sやんの電話応対のファン多いんだよ!
で、どんな女の子かよく聞かれるのよ。目つきの悪い ズ べ 公 みたいな顔
って答えたらウケちゃってさ!みんな山瀬まみを想像してたらしくてさ!」
などと気楽に私をディスりつつも「生もの食える?」と意外な気遣いを
してくれ、良い人なのか、ただの無神経野郎なのかと私を悩ませた。
そして連れて行ってくれたのは、ビカビカした小さな店。
どこかの飲食ビルの確か2階だったと思う。
看板は見当たらなかった。
ドアを開けたら、黒いカウンターの背後にはOPENのネオン管。
薄暗い店だ。
観葉植物があちらこちらにあるが、全て「この世の業を背負いました…」
みたいな感じに息も絶え絶えでカサついている。
流れている音楽は矢沢永吉が多めの男性ボーカルバンド系。
コレは…コレは男の隠れ家だな…
あら…?カウンターには寿司ネタケース?
MIDORIリキュールにモーツアルトのリキュールなんかあるわ…
カクテルのリキュールもスピリッツ系もそろってるなぁ…
複雑だ。
上司は「うーん、僕はジンフィズ!Sやんは 日 本 酒?」
両者で飲んだら飲酒運転だろう。
まだ運転代行がメジャーになる前だった。
カウンターからチラリと見えているウーロン茶のボトル。
「私はウーロン茶をお願いします」
上司は「Sやん!シブい!好きになりそう!」とキャッキャしている。
いつものクセで私は『ドア以外の逃げ道&すぐに隠れられそうなスペース』を
チラチラと探しながら、ようやく座りにくいスツールに座った。
上司を警戒しているワケではなく、単純に子供の頃からの私のクセだ。
前世で余程ろくでもない事をしていたのだろう。
さて、カウンターの後ろのオッサンはダンディだった。
手 術 着 に粋な感じのあごヒゲにTシャツにジーンズ。
自由人なのだろうか…たぶん景山民夫さんのファンだろうな…
ボンヤリと思いながら少し離れた寿司ネタケースを見つめた。
「何にしましょうか」良い声で自由人らしきオッサンが言った。
上司が甲高い声で「マスター!今日のおすすめは?」と聞いた。
「…全部です」とイヤミな声のトーンではなくオッサンは答えた。
上司は「え~じゃ、つまみの刺し身と後で特上にぎり2人前!」
う っ ひ ょ ー !!
何ここ!?
寿司屋なの!?
そんでもって上司は40過ぎなのにジンフィズなんて甘い酒で
刺し身なんてつまんじゃうの!?
しかも大将!じゃなくてマスター!って呼んじゃうんだ!
寿司屋ってナチュラルにマスター呼びOKなの…?妙だな…
知らん事ばかりの20代だった私。
十代からホステスのバイトをしていたので、大人のお客さん達に
寿司屋は時々連れて行ってもらっていたが、今までに行った事のない感じの
寿司屋だった。
バブルの残り香、寿司バーってやつだったのかもしれんなアレ。
マスターには興味津々だったが、せっかく連れて来てくれた
上司に失礼だろうと思い、あまり話しかける事は出来なかったが
「ここはマスターのお店?」「景山民夫さん好きでしょ?」なんて事を
質問した記憶はある。
案の定、民夫さんファンで雇われマスターという事だった。
30代のうちにアメリカに渡って働きたい、とも仰られていた。
※(今アメリカで長く寿司職人をしてらっしゃる60~70代後半の日本人男性は
30~40年前くらいにニューヨークで修行していた方が多い印象。
当時のニューヨークは若い寿司職人の見習いが跋扈していたようで
若かったシンディローパーやマドンナも交流があったそう。
その世界を生き抜いた方達は現在カルフォルニアや都市部で
人気の寿司職人をしている方がまだまだ現役。
…って事で私はアメリカの寿司屋に行くと、渡米して成功したかな~と
思い出してはついマスターを探してしまう)
で、後は何という事もなく、小ぶりの旨い寿司を食べ
上司は甘い酒を数杯のみ、軽く酔って
「明日もあさっても仕事がんばろう!」と私の肩をたたき
謎に涙ぐんでいた。
帰りは私の運転で送り、上司宅から私はタクシーで帰宅という決まりが
いつの間にか出来、その後も度々、上司は色気抜きで夕飯に連れて行ってくれた。
「事務員より販売員の方が合っている」と本部に推薦し
可愛がってくれ、本当に良い上司だった。
それで、だ。
あのマスターのあごヒゲ。
何か既視感があるな、と思ったらシュルレアリスムの巨匠
サルバドール・ダリの鼻の下のヒゲとそっくりなのをアゴに生やしていたのだ。
綺麗に2つにわかれ細く跳ね上がったあごヒゲ、ってなかなか見ない。
50歳を過ぎた頃から、私のあごには3本のヒゲが生えている。
コレがまた抜いても抜いても「ワシら生きてます!」と健気に
生えてくるのだ。
『ジジイに変身中の私…』と思いながら今朝もヤル気みなぎる
あごヒゲ達を抜いた。
3本以上になったら、私は抜くのをやめてあのマスターのヒゲに
してみようと思う。
夫に「おとうちゃん、見てごらん。ヒゲだよ。」と話しかけたら
「あ~レイ(仮名・義姉)も生えてるよ…中年過ぎると女性もね」と
コチラを見ずに答えた。
感じ悪いな夫。
鼻を殴るぞ…いや、首の後ろを濡れタオルで殴るぞ…
「もっと増えたら抜かないんだ。ジャズのジジイみたいに粋に生やす」と
険しく 睨 み な が ら 夫の後頭部に告げたら
「そんなに生えないだろっ!?今どれだけ生えてるんだっ?」と
顔の残像が見えるほどのスピードで振り向いた。
そうとも夫。
いつまでも妻に興味を持つ事が大事なのだ。
どんどん振り向け。