プラスチックのタッパーウェアが苦手だ。
プラスチック自体が苦手だ。
今日、キッチンの整理をしていて『柴犬が丸まって入る』位の
サイズ3個と70㎝×50㎝位の箱型2個、サイズ違いの15個のプラ・タッパーウェアを捨てた。
スペースも出来たが、ものすごく気持ちがスッキリした。
別に物にこだわりがあるステキ生活派などではないし
ミニマリストやら自然を守ろう!なんちゅ~高尚な志もない。
プラスチック製品が便利なのはわかっている。
年老いた身体に優しい軽量素材だ。
店でふと目につき手に取るカラフルで可愛く安価な品物が多い。
それでも夕飯の余り物などをチョイとプラタッパーに入れるたびに
もやっと嫌悪感がわく。
25年以上、今もつかっているガラスのタッパーはフタの部分がプラスチックだった。
とっくの昔にひび割れ、フタはもうない。
毎回ラップか奇跡のフィットの醤油小皿でフタをしてガラス容器のみ使用している。
そんなプラスチック嫌いの私が大事に使っているプラスチックの容器がある。
菓子鉢だ。
去年カルフォルニアのスー叔母&イトコ宅に滞在していた時、夢でボンヤリと菓子鉢が出てきた。
朝食を出しながらスー叔母に「日本に住んでいた時に菓子鉢を買っておけば良かったわぁ。
アメリカのじゃなく日本の…あの田舎の婆さんの家とかにあるようなさ~」と言ったら
叔母が「マミちゃん!あんた本当に昔から変な子だわ!」と軽い 罵 り ワードを叫んだ。
叔母は、自室に私を誘い
「今回ねマミちゃんにあげようと思って包んでおいたのよ!忘れる所だったわ!」
と紙袋から取り出したのは、私の両親の結婚式の引き出物の菓子鉢だった。
渋柿色に塗られたプラスチックの二段重ねの菓子鉢。
裏には祖父の丁寧な金文字で私の両親の名前と結婚式の日にちが書かれている。
58年前の若い母と父が招待客ひとりひとりに手渡した引き出物。
その時、私はすでに母の腹の中で丸まっていた。
家族3人になった日だ。
父はその1年と10日後に亡くなったので、私には全く父の記憶がない。
唯一の家族3人の写真は、賑わうお中元の買い物風景をうつした新聞写真のみ。
『伊勢佐木町のデパートでお中元を選ぶフレッシュ家族』みたいに
書かれている写真だ。
ありがたく菓子鉢を頂きながら、スー叔母の新たな『不思議だわ』話しを聞いた。
「家は引っ越しが多くて毎回いろいろ処分したり箱ごと紛失したりですっかり
この菓子鉢は忘れてたの。でも一昨日ひょいっと本棚の上の箱を開けたら
出てきてさ!あんたが来るからパパとママが渡してくれってアタシに知らせたんだね!」
目をキラキラさせて嬉しそうに言う叔母の顔をチラ見しながら、
思わず涙ぐみそうになり「ぐほっ…いや~不思議な事もありますなぁ」と
マッハのスピードで後ろを向く私。
中尾彬の苦み走った表情を意識し、涙をこらえる。
泣き顔なぞ見せようものなら叔母は鬼の首をとったように喜び勝ち誇るだろう。
弱みを見せたら大笑いで喜ぶ恐ろしい人、それが叔母なのだ。
このスー叔母は現在96歳。
日がな一日、大音響のTVを見つつバリバリと鬼のように激硬のせんべいを食べて
渋い緑茶をガブ飲みしている。
芋けんぴもカリカリと良い音をさせながらよく食べている。
人工呼吸器をつけているが、長~いチューブにして動きやすくし
庭の花壇の世話など、階段も何のその。
ひょいひょいと歩いて菜箸片手にナメクジ撃退に執念を燃やしている。
噂話しと悪口が大好きで、誕生日が私と一緒。
昔から性格がキツく 第 二 次 世 界 大 戦 が終る半年前に 闇 市 で英語の辞書を
手に入れ『誰にも言えないけどこれからは英語が必要だ』と独学で学び
終戦後はすぐに当時のPX(PostExchange=在日米軍のスーパーみたいな)で
年を誤魔化し働いた。
当時は仕方なかった 横 流 し などしつつ
若き米兵を手玉にとり貢物片手に、ストリートのパンパン姉さん達に
「アナタ達と私は違うのよ!」と気位高く喧嘩をしつつ我が一族数十人を支えた猛者。
その数年後に在日米軍の弁護士関係だかの仕事をしていたバーブおじさんこと日系アメリカ人と結婚し、
米軍住宅で忙しい日々の中、やはり一族身内を支えながら子育て。
そんな中で私の母が未亡人となった日から私を引き取り、1歳から5歳まで
もう一人のY叔母と協力して私を育ててくれた人なのだ。
だから私の事を「身内のブラック・シープ(黒い羊=はみ出し者とかダメな人)」
「バカでどうしようもなかったけど今はマシ」「もっと叩いて育てりゃ良かった」
「ハワイの家では下品な恰好でアンタと一緒に歩くのが恥ずかしかった」
私が夫と婚約した時には「黒人と結婚するなんて」
などと心塞ぐような恐ろしい事を言われて大喧嘩しても、縁がきれる事はなかった。
会うと何となく元気になり、やる気スイッチを入れてくれるパワー系ババアなのだ。
激動の時代が青春だったスー叔母はプライドが高く、凄まじく気が強く
叶 恭 子 姐 さ ん 似の華やかで粋な超美人だった。
私を育てていた時期は何故か お す ぎ にも似ていた。
勝気なスー叔母は他の誰にも言わないが、最近の老いたダメ娘の私には少し弱みを見せてくる。
「オバちゃまねぇ、唯一のコンプレックスは学歴なのよね」
そう、叔母は激動の時代で中学もろくに行けなかったのだ。
読書好きだし英語も不自由していないが、全て独学。
スゲーのだ。
本当に色々な苦労をした、と会うたびに何度も話す。
私も「ほーう、そうですな、オバちゃまは偉いよ」と相槌しつつ
毎晩夜中まで同じ話を互いに話し込むので
私が滞在中、スー叔母は少しやつれるが元気。
この20年はとても良い関係だと思う。
数十年前まで、家の親戚は皆さん私とは距離を置いていたが
育てのY叔母とスー叔母の2人は文句を言いつつ、何となく私を受け入れていた。
悲しい事に育て一人であったY叔母はすでに他界したが、私が風邪をひいた時などは
夢の中に現れる。
無言だが、Y叔母の懐かしい匂いがして昔のようにデパート巡りなどする夢を見る。
母との暮らしが始まった昭和50年代は、シングルマザーが珍しい時代だった。
父は勤め先の事故で亡くなったので、保健やら寡婦年金や何やらでお金には困っていなかった。
母は再婚せずに片親生活を選んだ。
同じ頃に母の友人だった人は娘を連れて再婚したのだが、再婚相手と娘の関係が
ややこしい事になったりしたのを見たせいもあったのだろう。
私と母は気楽で食事は店屋物ばかりで掃除もあまり気にしない生活を送り、
途中からは祖母と生涯独身だった一番年上のカズ叔母もそれに加わった。
カズ叔母ってのが、精神病のこれまたスゴイ人だったので
母はそこから随分ツライ想いをしたのだが、私はカズ叔母に可愛がられ
子猿(カズ叔母のペット)と謎のヒソヒソ話しや小屋で一緒に寝たりして過ごしていた。
週末・夏休み・冬休みはスー・Y叔母たちの家に預けられる事が多かった。
一人っ子の私だが同じ空間で育てられた年の離れたイトコ達と過ごす事は少なかった。
マミという名前をもじってイトコ達からは(お邪魔な意味で)マメと呼ばれていたが
そういう事は全く気にならずに過ごす鈍感さが今でも多々ある。
外国暮らしで「人種差別だか人種キャベツだか知らねーけどまあいっか」と
他人事なのは鈍感力の賜物だ。
そして誰も褒めないので自画自賛だが、私は身内が思う程悪い子ではなかったと思うのだ。
確かに叔母や叔父達が言うように、若くして寡婦となった母は私がいなければ
身軽に再婚したり新たな道の選択肢が多かったはずなので、いない方が良かった
子ではあったのかもしれないが、決して自分を卑下しているワケではない。
私バンザイ的に楽しく生きてきた。
薄らバカのように延々と逆立ちしている幼い私の横で、大人達はよく
「マミさえいなければねぇ…」と悪意なく話していたのを覚えているし
私自身『確かにそうだよね~』と心の中で頷いていた。
子供ってのは『事実を感情的にならずに』理解していると思う。
だから『確かにそうだけれど産まれちゃってるし、こうやって一緒に居るんだから
仕方ないじゃん』と悪びれずに思ったものだ。
こう思えたのは、お邪魔虫と思いつつも自然に私と時間を過ごしてくれた叔母2人の
大らかさと時代のおかげだろう。
勉強はできない子だったけれど、小学生から読書好きで大人達の本棚から
佐藤愛子さんや田辺聖子さん、北杜夫さん、山本周五郎さん、太宰治さん
サガンさん、女性自身、週刊新潮などなど自由に選び、わからない漢字は文脈で想像しながら読み進めた。
おとなしく絵など描きながら、部屋の片隅で大人の話しを面白く聞き記憶したが
それは母にも誰にも言わなかった。
そんな頃の話をカルフォルニアのイトコ宅で庭の椰子が青く見えるような夜更けに
叔母と話し込むのは非常に楽しい。
今朝「5月にまたそっちに行くよ~」と、叔母と電話で話した時に
家の極悪チワワが背後で吠えまくっていたので、叔母が
「あら…うるせー犬。叔母ちゃまチワワって大嫌い」と言ったので
「仕方ないじゃん…責任あるんだから…ソフィ(極悪チワワ)が毎日何かしら
喜べるように私には責任が…しかしチワワと暮らすとは思ってもいなかったわ…
アスパラガスみたいな足で気が強くてね…嫌いだわぁ」
とサラリと愚痴が出たら
「そうなのよ!責任なのよ!チワワ嫌いも責任感もアンタと一緒!」と
叔母は新たな発見である共通点に無邪気に喜んでいた。
ソフィや…
あの頃の叔母はこういう責任感で私とも過ごしていたのかも。
ソフィは自分がチワワだとは思っていないようだし
日本語での悪口だから、わかっていない事を祈る。