ママJとのお話から。 | 日々

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とくになし

「ちょっと相談が。2人で会えませんか?」と異性から言われたらうれしい? ブログネタ:「ちょっと相談が。2人で会えませんか?」と異性から言われたらうれしい? 参加中

私はうれしくない 派!


そんなかしこまって言われるとだね・・・

猟犬から野良犬となった人間不信なワンコ、ジョージ三世の乳で育てられた

私なので悪い予感でイパーイになるんだよ…

(ウソです。粉ミルクで成長しました。)


金額の大きな借金の申し込み。

妻以外の女性の妊娠打ち明け話し。

「オレ、性病だったんだけど、オマエ大丈夫だった?」と気遣いのような

クソ野朗的打ち明け話し。

宗教のお誘い。

開運はんこの販売。

地方の教団施設でとれた新鮮野菜の購入。

儲かる、絶対!などと太文字で書かれたどなたかの本の購入。

何かの政治的新規団体の応援係。


ああ、なんという 後 々 面 倒 く さ そ う な相談の数々!

『匂いますね…』と心の底でブンブン頭を振りつつも

「おお、どうしたよ?うんうん。じゃ明日な。」と

泥の上で燃え盛っている火の中に身を投じるんだな、これが。

なぜか?


そりゃアナタ…好奇心ってヤツよ。

アドベンチャーはアタイのオカズ!!!

飯、三杯だ!!!






今日も無事に一日終わりました。

万物の神様、仏様、御先祖様、ありがとうございます。

・・・みたいな気持ちになる夜って、ある。


ママJを含めた我が家、ハラハラどきどきな一瞬は多々

感じつつも、穏やかに本日は終了。

ふぃ~~~~



おねえちゃんは、自分のテリトリーむき出しにしつつも

ママJとソウルフード作りに専念していたわ。


って事で、今日はコーヒーを作る為に数分キッチンに

立っただけの甘え嫁な私だった。


おねえちゃんもさ、ママJの手伝いでキッチンに立ちつつ

互いに威勢の良い本場シスターエボニクス(黒人英語)で

大声会話していたわよ。

この絶妙な会話、聞いていて

眠くなるほどテンポがいい。


ママJも義理姉も、元々、生粋のニュージャージーっ子。

声が大きく、早口で、Rの発音がきついから

まるで元気の良い音楽みたいに聞こえる。


コーヒーを飲みつつ、そんな2人の掛け合いに

たどたどしくも参加。




そして、何をそんなに話し込んでいたかと言うとですね…

ゴシップ井戸端会議だ。


ただし、現代の華やかなハリウッドセレブ・ゴシップなどではなく

身内の近況と…

かの米国大統領トーマス・ジェファーソンと、

その愛人サリー・ヘミングスについて。




1800年の大統領選のとき、アメリカ中でウワサされつつも

政府とジェファーソンの家族、応援団体の必死の隠蔽と

人種差別が当たり前であった時代のお話。


ジェファーソン大統領は白人。

サリーは、白人と黒人の間に生まれたミックス。

(と、いう事は黒人となる)



私の記憶では、ジェファーソンさんってヤモメだったと思うんだけどな・・・?

正妻は早くに亡くなってさ。

そうだよ、そうだよ。

で、亡くなった妻の親がやっていた農園の奴隷の娘がサリーさんだ。



農園の主であった義理父も亡くなり、働いていた奴隷達は

ジェファーソンさんに『相続』されたんだよね。

当時は、奴隷として働いていた人達を『財産』としていたのよ。


つまり、年頃となってジェファーソンさんと

く っ つ い ち ゃ っ た サリーさんも、

2人の間に出来た子供達も

家 畜 同 様 『財産』としてジェファーソンさんの記録に数えられていたの。


人権も何もなかった時代なんだなぁ。

くっついちゃったと書いたけれど、サリーさんにしてみたら

感情も何も受け入れるしかなかっただろうよ。

いや…やっぱり成長期をジェファーソンさんの下で暮らした

サリーさんにとって、御主人の恩寵と感じたのかしら。


ちょっと光源氏さんとダブるわね。

幼子から自分色に、みたいな?

(サリーとジェファーソンの出会いは、彼女が9歳の時)by ママJ



ジェファーソンさんが使い走りの奴隷の9歳児に目をとめていたか

いないかは、全くわからないけれど(ママJの妄想もあるので…)

14歳となったサリーさんは、英国との平和条約交渉のため

フランスに渡ったジェファーソンさんと

完全に人生を共にする事になるの。



フランスに渡る際、ジェファーソンさんは亡き妻との間に出来た

自分の12歳になる娘を連れて行ったのね。

で、その娘のお相手というか奴隷として同じ年頃の子供を

送ってくれるよう米国に頼んだの。


最初に選ばれた奴隷が病気となり、急遽その代役で

選ばれたのが14歳だったサリーさん。




パリでの生活は、いつの間にか若い愛人に教養を身につけさせるようなものに。

サリーさんにフランス語を学ばせ、仕立て屋できちんとした服を買い与え

恐らくサリーさん自身も、何も言えない奴隷の立場からは

脱却したのでないかな、と、私は思う。


だってさ、パリからアメリカに帰国が決まった時

ジェファーソンさんの子供を妊娠していたサリーさんは

「アメリカに帰ったらまた奴隷でしょー?やなんだよねー、奴隷。」と

ジェファーソンさんに言い

「じゃーさー、一緒に帰国したら時期を見て奴隷じゃなくすから

帰ろうよー。」と約束したのだもの。

(口調はたぶん違います)


そして、このフランスで過ごした時期の

個人的なジェファーソンさんの手紙は

全て「消失」している。


だから、過去の文献などでは

サリーさんの存在自体が「なかった」事になっていた。

公然の秘密ってヤツね。





米国に帰国後、サリーさんはジェファーソンさんの専属奴隷となり

2人の間には数人の子供が生まれる。

決して、認知はされないけれどジェファーソンさんに

よく似た息子や娘が。



当時のゴシップ新聞が

「あの大統領は黒人女を嫁扱い!?黒い少年は大統領に瓜二つ!」

(今風にしてみました)

みたいな事を書き散らしたが、ジェファーソンさん自身

否定も肯定もしていない。

それって、勇気あったな、と私は思う。


差別が当たり前だった時代に、彼は必死で守ったんじゃないだろうかね。

夕食も共に出来ず、自分を「御主人様」と呼んで見上げる小さな顔と

サリーさんの存在を。


地位と世評と肌の色 の世界だわねー。

(部屋とYシャツと私風に)




1826年、83歳で亡くなったジェファーソンさんと一緒に居たのは

サリーさん。


同時期に、サリーさんと、その子供達は全員が解放され

奴隷市場に売られずにすんだ唯一の家族だった。

約束が守られたのね。


その後、サリーさんは62歳で永眠。


サリーさんが余生を送ったとされる場所が

ここヴァージニアだったの。


そして、そのずっと前に米国で最初に取引された黒人奴隷を買ったのは

皮肉にもここヴァージニアに住む黒人だったのよ。

(最初のアフリカ奴隷の購入者に関しては、諸説がありますが

東海岸地域・南部地域の資料館などでは、この説が多いようです)



だから、ヴァージニアに今回初めて滞在となった

ママJの井戸端会議で出た話題だったんだよねー。


ママJもそうなんだけど、アフリカンアメリカンや

ブラックカルチャー好きな人と話していると

このジェファーソンさんとサリーさんの話はちょこちょこ

出てくるの。


で「あの時、ジェファーソンが行動を起こせば奴隷解放って

もっと早かっただろうね。」という言葉もよく聞くのだけれど…


それはどうかな、と私個人は思う。


大統領である自分の側に置いておく事が、

誰にも認められなかった女と子供の命を唯一守れる時代に?

奴隷、として、何も与えられていなかった者達が

ジェファーソンさんの行動で、どんな声をあげる事が出来たのだろう?

ただ命を落とすリスクを高めただけでは?


個人個人の考えは違うし、その時のその人の感情論も多々。



かの時代に『御主人様家族』の為に料理し

彼らが食べない手羽などのゴミを持ち帰り

ジックリ油で揚げて、骨まで食べられ腹持ちの良い

ソウルフードを作った人達の事。

(『フライドチキン』はソウルフードです)


捨てる臓物をよく洗って、洗濯に使う酢を使って

煮込んだソウルフード・チットリンズ。


家畜のエサにも使われていた硬い硬い葉

カラードグリーンも、美味しい煮込み野菜に。

(カラードグリーン=大きな硬い葉で、調理後はカラシ菜のお浸しのようになる)


腹持ちの良いお米と、余り物を湿気の多い地域でも腐らないよう

鍋でグツグツ煮込むガンボ。(おじやっぽい)


沼地の匂いのきつい魚を美味しく食べる為に

混ぜ合わされた香辛料の数々。(ケイジャン料理)


ソウルフードと呼ばれる料理を作る時、ママJは

恨み事など言わずに「賢い先人の知恵料理」を淡々と

私に教えてくれる。


今日は、義理姉も一緒にそれを聞きながら

女3人、長い時間をキッチンで過ごしたわ。





帰宅したオットなんて、チラッとキッチンに顔を見せて

「ではでは…女性の会を楽しんでね。」と自室に引っ込んでいた。

そりゃそうだろうねw


私も途中離脱しちゃったけど、ママJとおねえちゃん

なんとなく上手くやってたわ。良かった。




















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