こんにちは、なぎさです。
前回に引き続き今回も神様のお話。
C.H.スポルジョン「朝ごとに」から、本日9/4の箇所を共有したいと思います。
さて、ツァラアト※に冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
─マルコ1:41-43
※ 詳細不明の重い皮膚病。旧翻訳では「らい病」と表記されている。
(前略)
この病気には希望もなく回復のしるしもなく、自然の力をもっては全くいやすことができなかった。
しかし主のただ一言によって、その場でいやされた。
罪人(神様に背を向ける人)はこの病よりももっと悲惨な状態にある。
彼にこの病人のように、「イエスのみもとにお願いに来て、ひざまず」かしめよ。
信仰が乏しくても、それを働かせよ。
「お心一つで、私はきよくしていただけます」という程度の信仰でもよい。
信仰を働かせることがよい結果をもたらすのは、疑う余地がない。
イエスはみもとに来る者をことごとくいやし、一人も退けられなかった。
今朝の聖句(42節)の前後(41節、43節)を読む時、イエスがこの病人に触れられたという点に敬虔な注意を払うべきである。
この病人は、律法(昔から伝えられている救われるためのしきたり)にある規則を破って家の中に入った。
しかしイエスは、彼を叱責されるどころか、彼に会うためにご自身も律法を破られた。
イエスはご自身と病人を交換された。
イエスは病人をきよめられたが、彼に触れることによってレビ記中(”律法”というルールが書いてある旧約聖書のレビ記)の律法に定められた汚れを受けられたのである。
そのように、イエス・キリストは罪を知らない方であるのに、私たちのために罪となられた。 私たちが主にあって神の前に義とされる(神様から見て善いとされること)ためである。
(中略)
イエスの愛は救いの源である。
主は私たちを愛し、ながめ、触れてくださる。
こうして私たちは生きるのである。
()は私による追記です。
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さて、ここからはご一緒にみことばをじっくり考え、神様が私に今日、何を伝えようとしているのかを「神様に直接教えてもらいながら」学んでいきましょう。
このような時間を、キリスト教プロテスタントではデボーションと呼んでいます。
このツァラアトという皮膚病は、昔はらい病と翻訳されていました。
らい病はらい菌に感染して末梢神経麻痺や皮膚に病的な変化がでる病気なのですが、聖書学者さんたちが調べていくうちに、ツァラアトと書かれている病気がらい病ではないことがわかりました。
旧約聖書を読んでいると、この皮膚病は人体の皮膚だけでなく壺や壁などにも広がる病気です。
そのため、感染拡大防止策として一定期間の隔離措置が行われている記載があります。(差別ではなく当人や集合体の保護目的ですね)
実際何という病気なのか現代でも不明なのだそうで、原語写本で書いてあるツァラアトという読みを、そのまま新改訳聖書3版以降、2017版でも採用されています。
新改訳聖書2版はらい病表記です。
2版にあった現代では差別用語となっている表記を3版で変更し、2017版は全文大幅改訂訳をしたという流れになっています。
このツァラアトになる原因としては旧約聖書の時代(紀元前数千年前ごろ)は神からの呪いだとか、律法に違反しているから神罰として下された病だとか、そんなふうに信じられていました。
新約時代(西暦1世紀ごろ)でもまだそのような感じです。
現実的には、その原因は…不明です。
現代では、魔法が使えるとか呪術で何かダイナミックなことができるとか、そういうのはファンタジーなことで非科学的だと思いますね。
確かに呪詛は日本には今でも普通にありますし妖怪だっています。本気で丑の刻参りしている人も今でもいますし、呪詛返しに遭う人もいます。人を呪わば穴二つというものです。
イギリスなどでは妖精伝承が多いですが、このようないわゆる「オカルト(よくわからないもの)」は物的根拠で証明はしづらいですね。
当時は魔術、呪術が普通にあると考えている時代です。
ですから、本気で病気や怪我や貧困などは、神様から祝福されていない・救いの手から漏れている者だと信じていたのです。
そうなると、当時の彼ら的な「救い」というのがなければ、彼らは絶望の中で生き、絶望の中で死去し、死後も絶望なのです。
そして、旧約聖書の3つ目「レビ記」に書かれている律法(りっぽう)に1つでも違反すると、いわゆる地獄行決定です。
現地の世界観は「二極論」です。
全部守るか守らないか。
1つでも守れなかったら、すべて守れなかったと同じ。
全部守れば天国へ、1つでも守れなかったら神によって魂までも滅ぼされる──という認識です。
昼間は猛烈に暑く、夜は極端に寒い。
極度の乾燥など、気候が極端な地域や、大陸などで強豪国と地続きの国境の国は気を抜くとすぐに侵略されてしまうので、そのような地域の信仰はその形態も極端な二極論的な構造になっているそうです。多分今でもそうなのでしょうね。
そういう世界観で生きていると、病気というのは体だけでなく魂的にも致命的です。
そんな状況で、イエス様は病人である「私」を癒し救うために、「私」が抱える病などの諸問題を引き受けてくださっているのですね。
「私」の抱える荷物はグッと減るのですが、その重たい荷物はイエス様が引き受けてくださいます。
それだけでなく、律法を違反した「私」の身代わりとして、ご自身がその罰を引き受けてくださって、神に呪われる立場になってくださるのです。
なぜそうしてくださるのかというと、創造主から見た時に「私」を神様への背きがない正しい人としてもらうため…つまり、「私」が審判で罰を受けないで済むようにさせるためです。
このために、イエス様は身代わりになってくださっているのです。
そのようにイエス様が引き受けてくださるためには、私たちは敬虔で真面目で立派な誰からも批難されない、人がうらやましがるような信仰心を持っていなければなりません!
……ではないのです。
小さな小さな信仰でもいいのです。こんな小さくてもいいのです。
数ミリ程度しかない小さな信仰でも、イエス様は「私」をかえりみてくださるのです。
そんな弱い「私」を、イエス様は
この「あわれみ」は、「あらまぁ、可哀想にー」という表面的なものではなく、原語直訳をすると「内臓する愛」。
分かりやすく言えば、内臓が引っ掻き回されるような思いになるほどの愛で、心揺さぶられ涙があふれ出てくるようなそんな深い深い思いです。
そんな思いで、イエス様は私を、あなたを、あなたが心を寄せているあの人のことを愛しているのですね💕
「私」は弱いです。
体も病気知らずで超絶健康体✨ではありませんし、心も弱いです。
キツい態度であしらわれるとすぐ凹みますし、失敗したら結構それを引きずります。
自分で自分の体も、心も、経済も、社会的なものごともすべて回復させることが出来る人、心根も優しく、一切の差別心もなく、偏見もなく…というパーフェクトな方には神様はいらないのです。
しかし、弱い「私」には必要です。
小さな信仰心でも神様は叱りつけたりしません。
安心して助けを求めていきましょう。
祈り
ハレルヤ。
愛する天のお父様、御名を崇め感謝します。
「朝ごとに」の今日の箇所から、主が如何に優しく、如何に私をあわれんでおられるのかを知ることができたことをありがとうございます。
からし種ほどしかない弱い信仰の私ですが、イエス様の十字架と復活によって、大胆に主の御前に立てる約束に感謝します。
みことば通りに、心が折れそうな方々、病のうちにあり苦しまれている方々にその御手をのばし、癒しと平安をお与えください。
あなたは堅固な砦、崩れることのない強い城壁、また私たちを憩わせる美しい泉です。
主により呼び集められ、平穏を得られるよう私たちの手を引きお支えください。
今日のデボーションに感謝して、救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。
アーメン。