こんにちは、なぎさです。
前回、カウンセリング心理学についてのお話を書きました。
今回はもう少しそこを掘り下げながら、クリスチャンカウンセリング(キリスト教的カウンセリング)という内容で考えていきたいと思います。
カウンセラーさん向けの内容になるかもしれません。
わけわからないよ!という方はスルーしてくださいませ。
まず、カウンセリングという行為ですが、これを行うには「カウンセリング理論」が必要になります。
そしてカウンセリング理論を導き出すには心理学が必要になります。
心理学を体系化するには人間学が必要になってきます。
つまり、
大きな土台として人間学があり、その人間学の上に心理学がある。
これらをベースとしてカウンセリング理論が成り立ち、その理論に基づいてカウンセリングを行う…と、こういう構造になっています。
■人間学
(1)人間学について
人間学は人格科学…つまり、人間を扱う科学ということになります。
では科学とはなんだ?になります。
- 非人格を扱う
人間側が”それ”に働きかけて、実験と観察によって”それ”を知る事。 - 人格を扱う(人間学)
人格である私から別人格である”相手”に働きかける。実験と観察だけでは知れない。
人間学では、こちらからの働きかけに対して相手が応答してくることを必要とします。
つまり、相手が主体的な決断で応答して自己開示してくれなければ知る事ができないのですね。
もう少し噛み砕くと、相手が自分のことを打ち明けてくれないと、こちらは何もわからないということです。
自分について打ち明けることを「自己開示」といいます。
自己開示は相手を信頼しなければなされることはありません。
信頼できない人に、人は自分の悩みや苦しみを言えないのです。
それはそうですよね。侮辱されたり嘲笑されるかもしれない相手に弱みは見せられません。
つまりカウンセリングは、自己開示がなされなければ成立しないのですね。
ということは、カウンセラーから何かを言わせるように相談者さんに強要することはないのです。
信頼関係を築き、そのうえで相談者さんからの自己開示を待つということになります。
人間学にはへブル的(聖書的)な「知る」とギリシャ的な「知る」があります。
- ギリシャ的な「知る」
=相手についての情報の収集をする - へブル的な「知る」
=人格的な交わりを含めたもの、人格的関係性の中で知る・愛の関係性の中で知る
ギリシャ的思考とヘブル的思考は違います。
私たち日本人は元々へブル的思考をします。つまり情緒的感性が強いのです。
一方、ギリシャ的思考では議論に適した論理的思考になります。
現代の科学的根拠(エビデンス)に基づく社会構造や理解は、このギリシャ的思考によります。
具体的に何が違うのかと言いますと、例えば「黄色い歓声」という表現。
ヘブル的思考をすると「女の子たちが歓喜して叫んでる」と解釈します。
ギリシャ的思考をすると単なる黄色の歓声で、声は黄色ではありませんから何のことやらさっぱりわからない。声に色があるのか?女の子の声が黄色だと仮定し、では成人女性は何色の声なのか、男性は?と検証、実験をしていくことになります。
また、「炭坑節」という歌で考えてみますと、「月が出た、三池炭鉱の上に出た。あんまり煙突が高いから、さぞ月も煙たいだろう」をヘブル的思考では情景を思い浮かべて、夜空なんだな、満月なんだな、煙突から煙がもくもく出てるんだなと想像します。
ギリシャ的思考では、月は地球から384,400km離れているのだから、三池炭鉱の上に出ているわけではない。煙突が高くても月にまで煙は到達しない。そもそも月は有機生物ではないのだから煙たいとか思わない…と、こう考えていきます。
臨床心理学で扱う病理的personalityでは、脳内の神経伝達物質や神経、血流、栄養素などで様々に「この場合こうなっていく」という科学的な検証と実験を基礎としたエビデンスがあります。
ですからギリシャ的思考でカウンセリングを進めていくことになります。
一方、カウンセリング心理学に基づく個と個、個と環境の変化などで起きる、神経やホルモンなどの機能的・器質的・物質的な”精神”ではない【心の問題】は、流動的で変化が激しく、逐一状況が変化します。
この場合はヘブル的思考で、相談者さんと関わる必要が出てくるのですね。
さて、クリスチャンカウンセリングでは単に知的に相手を理解するだけでなく、神格(神様の人格みたいなもの)とカウンセラーの人格的な関係が成立していることを基礎として相談者さんを知るという考え方になります。
神様⇔カウンセラー という関係が成立している+これを基礎としてカウンセラーが相談を受ける─です。
人は意識できることが1/10、無意識は9/10と考えます。
この無意識の世界がカウンセリングで現れるのですね。
クライアントの傷ついている部分の保持は、この無意識領域にあるのです。
クリスチャンカウンセリングだけでなくカウンセリング心理学におけるカウンセリングもこの9/10の部分を対話を通して知る工程になりますね。
★カウンセラーのルール
- 相談者さんの問題点はその人の中にあるので、カウンセラーは価値観を押し付けたりしない。
- カウンセラーは相談者さん自身にある答えを一緒に見つけ出せるように伴走する。
↑
カウンセラーはその人によってベースにしている理論や療法が違います。
論理療法や精神分析法などたくさんあると思いますが、この場合はそれ以前の軸の部分としてロジャーズのカウンセリング理論がある場合ですね。
そこを軸にカウンセリングをする場合、この2つはとても大切なことですね。
そうでないと、カウンセラーの中にある「普通」や「常識」と違う相談者さんを、カウンセラーが否定して説教することになってしまいます。
また、カウンセラーが「私が治してあげる」「私が治してあげた」と高慢になってしまいます。
カウンセリングは、言語的および非言語的コミュニケーションを通して、健常者の行動変容を試みる人間関係です。─出典:カウンセリング辞典p77r ,國分康孝, 誠信書房
具体的には①問題解決の援助と、②personality成長の援助のいずれかを主目的にした人間関係となります。─出典:カウンセリングの原理p14, 國分康孝, 誠信書房
ですから、価値観の押し付けではありませんし、問題解決をしてあげる・成長させてあげるではなく問題解決や成長の「援助」なので、カウンセラーが「私が治しました」「私なら治せます」というのはカウンセリングではないのですね。
さて、相談者さんはカウンセリングの最中にカウンセラーに依存することはあっても、最終的に自立していきます。
しかしカウンセリングが終了しても「先生がいないと生きていけない」という依存が起きている場合、カウンセリングは失敗していることになります。
クリスチャンカウンセリングであっても、相談者さんが自立するのが目的であり、相談者さんをクリスチャンにするのが目的ではありません。
これ、とても大切です。テストに出るくらい大切です。
クリスチャンカウンセリングは、信徒を増やす目的ではありません!
ですから、「対話をしたら勧誘される」ということはないのですね。
相談者さんが何かしらの信仰を持っていても、その中から問題解決のカギを一緒に探していきましょうというのがクリスチャンカウンセラーです。
自他の宗教観に左右されません。
チャプレン(臨床宗教家/病院付き牧師)はこの立場にいます。
ですから、患者さんがどの信仰を持っていても、どの宗教に属していても関係なく相談を受けられますし、勧誘(キリスト教的に言えば伝道)しないので教会行くよう促されたりするようなことは発生しません。
それやっちゃったら普通の伝道者や牧師です。
■一般的なカウンセリングとクリスチャンカウンセリングの対応の違い
「人間とは」「死について」という質問に対する答えが全く違います。
- 一般的カウンセリングの視点からの回答
人間はつまるところ、C(炭素)H(水素)O(酸素)P(リン)N(窒素)の集合体であり、肉体はすべて無に帰する存在である。
=「人は必ず死ぬものである」ということであり、死を理解しようとするならば死ぬしかない。
=生きている間は死を理解することができない。
一般的カウンセリングによるアプローチ法
→「生きている今、死を理解することができないのであれば、死を恐れる時間はもったいない。そこに時間を使わないで、生きる事に時間を使っていきませんか?」
- クリスチャンカウンセリング視点からの回答
人は人格的な存在である主によって創造されたものであって、このお方の御旨によって存在が保持されている。
=主との関係が無関係にならない限り、私たちの存在は意味のあるものであり続ける。
一度回復した主との個人的関係は絶対に破棄されないので、私たちは生きている間だけでなく死んでもなお、意味ある存在であり続ける。
「なぜ生まれてきたのか」「なぜ生きるのか」「生きる意味とは」「死とは」の心の部分の問いに関して、人間には答えることができないとされています。
肉体的な科学的な根拠はいくらでもありますが、心の問いに対して「こうだ」と断言できるソースがないためです。
これに答えることが出来るのは超越者(神仏)のみです。
ですから、特に死生に関わるこのあたりのデリケートな部分の悩みにはクリスチャンカウンセリングが適していると私は断言したいです。
一つの揺るぎない確信を持っている人は、心が安定します。
相談者さんはいわゆるメンタルが安定している人のところに相談をしにいきます。
それは、相談に対して対応が一貫しているからです。
一方、不安定な人のところに相談はしに行かないのです。
不安定なカウンセラーでは相談した内容は同じなのに、回答がコロコロと変わってしまいます。
ですから、カウンセラーはロジャーズの提唱する「カウンセラーの3条件」の自己一致が必要になるのですね。
カウンセラーをやりたい!という方は、まずご自分に揺るぎないモノを持ちましょう。
もし精神状態が不安定なのであれば、まずはそれを治してから!
安定してからにしましょう。
そうでないと、相談者さんの相談は決して軽い内容ではありませんから、重たい内容と相談者さんの感情に引きずられますよ。
抑うつ的な相談内容を聴いて自分まで抑うつになっては共倒れなのです。
■生きる責任に対する一般的解釈と聖書的解釈の決定的な相違点
私たちが暮らすこの実社会では、その人が主体的に「選んだ」行為に対しては必ず「責任」が発生します。
しかし、生まれた事自体を本人が主体的に選択していないため、生きる事に責任を負う事に抵抗を感じる場合があります。
「好きで産まれたんじゃない!」とか「産んでくれなんて頼んでない!!」というものですね。
聖書的には創世記で、人は主により創造されて、神様の世界を管理する責任(委託責任)を任命されています。ここでは、創造によって人間は命を委託された責任が出てくる。
つまり、私達人間は被造物として命を委託されている。
ですから選択責任はないのですが委託責任という預かっている命を管理・運営・運用する責任が発生していることになります。
■おまけ■
聖書的カウンセリングとクリスチャンカウンセリングの違い──
- 聖書的カウンセリング
人生の問題はすべて聖書のみことばにより解決できるため、聖書を紐解き聖句に示されていることばを実践するよう指導する。 - クリスチャンカウンセリング
クリスチャンのカウンセラーが、カウンセリング理論と技法を用いて相談者さんの抱える問題の相談を受ける。
全然違いますからね。
例えば困っている内容について、
「聖書の〇〇に~~ってみことばがあります。だから祈りなさい。常に主を見上げて主に望みを置きなさい」
が聖書的カウンセリングです。
信仰に躓いて苦しんでいる人には本当に有効なものです。
カウンセリングと名前はついていますがカウンセリングのルールからは外れていますので、カウンセリングではありませんね。
聖書的指導とか指南になります。
悩みを相談して実社会的に自分はどう行動を変容すればいいのか、どう認知を転換すればいいのか、信仰とかではなくリアルにどう動けばいいのか悩んでいる場合は、聖書的カウンセリングは「押し付けられた」と感じるだけで、効果としては無効でしょう。
むしろ逆効果ですね。
勧誘された!とか、信徒さんであれば律法主義か!と感じます。
悩みによって対応の仕方は変わります。
カウンセラーは、自分はどんな領域のカウンセリングならストレスを感じないのだろうか、自分の得意分野は何かを知る必要があるのではないでしょうか。
それだけでなく、自分はどんなカウンセリングが苦手なのか、何ができないのかも知りましょう。
自分でできないケースはできる方にリファーする。
カウンセラーたちの横の繋がりで様々な人を幅広くチームのようにフォローできると、みんなが楽になりますね!
ということで、クリスチャンカウンセリングならお任せあれ。
私は一般的分野では、家庭(親子)・夫婦・職場の人間関係を得意としています。
また臨床では、がん患者さんの中でも特に死を意識して死について気持ちの整理が付けられない方の傾聴と実存的(スピリチュアル的)支援を得意としています。
このスピリチュアルは前世/先祖が~とか、なんとかカラーとか、どこどこのなんとかスポットとか、何から何かのなんとかパワーが、というオカルトスピリチュアルではなく生きる/死ぬという自分の実存に関わるものです。
私が扱うスピリチュアルはこちらです。
手を付けないのは精神障害者支援ですね。
この病理的パーソナリティに関与する場合、私は速やかに保健所と連携しバトンを保健師に回します。
また臨床であればそのまま主治医/担当医に報告します。医師の判断により精神科コンサルがなされます。
前職が精神科病院勤務ですので精神疾患は嫌いではなく、むしろとても興味深くて今でも学び続けている分野ですが、相談内容が私にはどうも重たく感じてしまうのです。
ですから手を出しません。
ご家族の支援はしていますが、こちらはメインとなる後見人を含めた今後の対応策を練ることや、病気の説明、家族教育などに協力いたします。
必要であればお声がけください。