ドヤらない主イエス | あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

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メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

こんにちは、なぎさです。

 

今回は「ドヤらない主イエス」という内容です。

ということで神学方面のお話。

 

 

イエス・キリストが行くところ行くところ、いつも人々がたくさんついて来ていました。

 

「ナザレのイエス(ナザレ地方出身のイエス)が今、このあたりに来てるらしい。あの人に触れると病気もたちどころに良くなるらしい。」

 

みたいな噂は各地域に駆け巡ったようです。

多くの人が主イエスの周りに集まります。

 

聖書中では色々な人が主の周りに集っています。

眼が見えない人、耳が聞こえない人、足に障害のある人、ツァラアトと呼ばれる現在でも謎の重たい皮膚病の人、長血と呼ばれる女性器からの不正出血の人、脳出血などで不随や麻痺の中風(ちゅうぶ)と呼ばれる人などが、なんとか治りたい必死な思いで主イエスに近寄り、

 

「せめてその服についてる房でもいいから触れたい!そしたら治る!」

「助けてください!」

 

と手を伸ばす。

そんな状況が起きたりしていました。

 

主イエスはそんな彼らの病気や障害を癒していきます。

 

このように主イエスは弱って困って苦しんで助けを求めている人に癒しを与えた時に、

 

「わたしがあなたを治しました」

「わたしがあなたを赦しました」

 

ドヤァニヤリしないのです。

 

「わたしが困ってるあなたを助けてあげました。だから、わたしを信仰しなさい」

 

とは言わず

 

「あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 

と手を伸ばした苦しむ人々にその栄光を与えてくれています。

 

 

 

新約聖書(新改訳2017版)で見てみましょう。

 

イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒された。

─マタイ9:22

 

イエスは彼女に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

─マルコ10:52

 

イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰ああなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

─ルカ7:50

 

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

─ルカ8:48

 

それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

─ルカ17:19

 

イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」

─ルカ18:42

 

新約聖書では並行(へいこう)記事と呼ばれるものがあります。

ある1つの内容を4つある福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)のうちいくつかの書で、同じ角度かまたは少し別の表現で描写されているものです。

 

単純にそれぞれの福音書を執筆したマタイさんやルカさんが書きたくてそう書いたというのではなく、聖書に書かれている事はすべてに何かしらの意味があると考えるので、並行記事にも何らかの意味があります。

 

この「あなたの信仰があなたを救った」ということばはとても重要なものだと思います。

 

 

このことばを理解するにはまず、救いとはなんだ?を知る必要があります。

↑のリンク先の私の記事を読んでいただけるとわかるのですが、キリスト教のいう「救い」とは「解放」を意味します。

 

ですから、あなたの信仰があなたを解放した、ということになりますね。

 

では主イエスにこう言われた人は何から解放されたのでしょうか。

 

病からの解放だけではありません。

病によって人々から、世間から人間以下の扱いを受けていた苦しみ、妬み、嫉み、苛立ち、絶望、孤独、罪責感など…これらから解放されました。

 

ではなぜ、彼らは解放されたのでしょうか。

 

それは「イエス様なら私を癒してくださるんだ」と信じたからです。

 

 

この舞台は2000年ほど前の中東にある現イスラエルの出来事なのですが、この頃は信仰心は極々当たり前の世界です。

 

日本は2020年、令和2年現在、皇紀2680年です。

皇紀(こうき)は日本独自の暦の読み方ですが、これは神武天皇即位からカウントスタートしています。

同じように日本でも昔は信仰心があるのは極々当たり前の世界です。

現代は随分と神仏に対する信仰心は薄れましたが…。

 

 

そこで疑問が出てきます。

どうやって信じればいいのでしょうか。

 

キリスト教では、信仰心…神様を信じる気持ちは、人間が自力で「よし!信じるぞ!!」と頑張って得るものではなく、神様から恵みとして与えられると理解しています。

 

癒してほしい、助けてほしいと苦難の中にある時に願うことはほとんどの方がそうであると思います。

その時に誰にそれを願うのか。

 

神様にそう頼る信仰心も、神様が与えてくださいました。

神様は全知全能。 完全で、欠けるところのない知能。すべてのことを理解し、あらゆることを行なうことのできる神の能力です。─出典:コトバンク

 

この神様が与えてくださった信じる気持ちが、苦しみから解放してくれる…ということなのですね。

 

 

主イエスは確かに人間として2000年くらい前に母マリアから産まれているのですが、人間であり、また完全に神なのです。キリスト教のいう「罪」がまったくない方です。

そして主イエスは人間としてこの世に現れる以前、世界を創造した神なのです。

 

結局、信じる気持ちも主イエスが与えているのですが、それなのにドヤァとしないのです。

ドヤァできる要素しかないのにしない。

 

優しすぎませんか。

 

私たちの子供がまだ幼いとしましょう。

我が子ができるようにすべてをお膳立てして、手取り足取りできるように誘導をして、なんとか不格好ながらもできた我が子に

 

「じょうずだね!すごい!!」

 

とか言うような感じです。

 

子供が料理の味見をしてくれただけなのに

 

「今日のご飯ね、〇〇ちゃんが味見してくれたからこんなに美味しいんだよ!」

 

と言うような感じです。

 

 

そんな優しさ、親の無条件な見返りを求めない愛、育てようとしている愛が主イエスにはあるのです。

だからドヤらないんですね。

 

イエス様、ホントに優しい方です。

そんな神様が私たち一人ひとりを知っていて大切に思っています。