求めなさいって誰に求めたらいいの?本当にそれって与えてもらえるの? | あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

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こんにちは、なぎさです。

 

今回は神学のお話です。

 

 

 

新約聖書にあるマタイの福音書にはこうあります。

 

 

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出せます。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

─マタイの福音書7:7-8

 

 

ここは結構有名な箇所です。

 

文語訳聖書のほうが有名かもしれませんね。

 

求めよ、さらば興へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。

すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。

─文語訳聖書 マタイ傅福音書7:7-8

 

やっぱり趣があって文語訳は素敵。

 

 

さてこの御言葉、まさにこの文面の通りなのですが、誰に求めて探して叩くのか。その対象は誰なのか…というのが問題です。

 

 

ここだけ読むと、こう理解することも出来てしまいます。

 

 

欲しい物があったら駄々をこねてもいいから欲しがれ。

そうすれば仕方がないなと相手が折れてくれるから、欲しい物をGETできる!

 

諦めずに探し続けろ。

そうすればいつかそれが見つかる!

最悪、誰かが分けてくれるだろ。

 

誰かの家や心のドアがあったらとにかく叩きまくれ。

そうすれば相手が折れて、渋々でもドアを開けるから、そうしたらこっちもんだ!

 

 

…本当はどういう意味なのでしょうか?

 

ここの真意を知るには、7節8節だけではなく9~11節を知る必要があります。

 

 

あなたがたのうちの誰が、自分の子が案を求めているのに石を与えるでしょうか。

魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないということがあるでしょうか。

─マタイの福音書7:9-11

 

聖書は、その御言葉(聖句)だけを見ると意味を間違えて受け取ってしまいます。

文脈で読んで意図を汲み取るようにしましょう。

 

私は新改訳聖書(2017版)を使っているのですが、この聖書では1節ごとに改行されているだけでなく、文脈冒頭は2字下げして書かれているので、どこからどこまでが1つの文脈か分かりやすいです。

 

今回の箇所はまさに7:7-11までが1つの文脈ですので、この5節で考えていきます。

 

 

 

 

この文脈の後半部分からわかるのは、「悪者であっても、自分の子供には良いものを与える」ということです。

 

パンを食べたいという我が子に、石を拾ってこれを食べろと渡しません。

魚が食べたいという我が子に、毒蛇を生きたままポイと渡すことはしません。

 

やはり、パンを欲しがればパンを食べさせたいです。

朝ごはんにおにぎりを食べたいと言うなら、おにぎりを作って食べさせます。

それが親心というものです。

 

それならなおのこと天におられる神様は、ご自分にこれが必要なのです、助けてくださいと求める人たちに

「これでも食ってろ」

とか

「それはお前には贅沢だ、お前如きにはこれで十分だろ」

のように酷いことはせずに、必要なものを与えてくれるでしょう?ということなのです。

 

 

以前からこのブログでは、神様と自分の関係は親子関係ですよとお伝えしています。

 

神様は私たち一人ひとりを、まさに目に入れても痛くないほどに大好きで大好きで仕方がない思いでおられます。

 

実際に神様は、私のために、そしてあなた個人のために、まったく神様に背いたこともないイエス様に私の背きの罪を全部背負わせて、私の代わりに神に呪われる者として生贄という死に渡されました。

イエス様が全部背負ってくださったので、私たちはイエス様に免じて赦されているのですね。

 

私の罪を赦す対価としてイエス様が支払われ、私は赦される。イエス様を支払うことで私が買い取られる。……これを「贖い」 (あがない)と言います。

 

 

少し話が逸れましたがそれくらい私たちを愛している神様なので、神様に現状を打ち明けて辛さを訴えて、何がどう必要なのかを求めてください。

そうすれば、神様が私たち一人ひとり用に用意しておられる「良いもの」をちゃんと与えてくださるよ──というのが今回の箇所です。

 

 

なので、誰かほかの人にワガママ言っても大丈夫!ではありませんね。

相手が嫌がってでもとにかく騒げば、大声でゴネれば自分の思う通りになる!ではないのですね。

 

 

 

そしてこの後に、この一言が来ます。

 

 

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

─マタイの福音書7:12

 

これがイエス様の神学の本質です。

 

優しくしてほしいなら、まず自分が相手に優しくする。

褒めてほしいなら、まず自分が相手を褒める。

 

一方的に与えるだけではなく、一方的に受け取るだけでもないですね。

まさにgive-and-takeの関係。

 

 

 

 

神様は、ご自分に求めてくる人にはちゃんと与えてくれるのですね。

 

しかし求める人の思う通りにそっくりそのまま与えてくれるわけではありません。

 

これでは主従逆転してしまいます。

子供が王様のようになって親が渋々言う事を聞いてその通りにしてしまう関係と同じになってしまいます。

 

この主従関係が逆転した状態では、神様は創造主・全知全能の神ではなく、単に求める人の奴隷に成り下がってしまいます。

 

 

そうではなく、神様は求めてくるその人に応じてもっとも良いタイミングで、もっともその人のためになるものを与えられます。

 

こちらが望むものと違う場合もありますが、神様があなたに良いと判断されて与えたものは結果的に確かに良いものなので、その時の望み通りではなくても受け入れる謙遜さがこちらには求められるでしょう。