そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
『心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
──マタイ5:2-3
「あの人、心が貧しいよねぇ」
と言われると、私たちは嫌な気持ちになります。
良識がないとか、知恵がないとか、育ちが悪いとか、しつけがなっていないとか、そういう意味合いで受け取るからです。
この3節は英語翻訳ではこう翻訳されています。
Blessed [are] the poor in the spirit for theirs is the kingdom of the heavens,
spiritがpoorな人です。やはりpoorですから貧困です。
原語のコイネーギリシャ語で見ると、
ΜΑΚΑΡΙΟΙ οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι , ὅτι αὐτῶν ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶνοὐρανῶν.
こうなっていて、πνεύματι(プニューマティ)がπτωχοὶ (プトーコイ)な人です。
プニューマティを英語にするとspiritになり魂(霊)のことになりますし、プトーコイはpoorなので貧しいのですが、問題は何がどう貧しいのかです。
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お金がない、そんな高いものは購入できないというような貧困ではなく、プトーコイは縮こまる・うずくまるが変化した単語なので、霊が縮こまる、つまり生きる精神的な余力がもう残っていない差し迫った心の貧困になります。
聖書でいう霊は幽霊の霊ではなく、魂とほぼ同義のものです。
ですから、
「頼るものがもう何もなく(誰もおらず)藁をもすがる思いの絶望的な悲しみのどん底にいる人は、幸せなことです。」
という意味になります。
しかし、孤独感の中に居て不安な状況はまったく幸せではありません。
一体何が幸せだというのでしょうか。
天国は今、こうして苦しんで悲しんでいるあなたのものだから幸せだ、というのです。
この聖書箇所は「山上の垂訓」と呼ばれているのですが、決して主イエスは物静かに語ったのでありません。
集まった多くの人々に向かって大声で叫んで言っています。
ギリシャ語原語の【ΜΑΚΑΡΙΟΙ】は感嘆詞なので、正しく解釈して分かりやすく表現するとこの箇所は
「自分にも他人にも頼れなくなって、残るはもう神頼みなほど霊のレベルで苦しんでいる人は、なんて幸せなことだろう!天国は、そういう人たちのものなんだよ!!」
みたいになります。
人は、将来に希望を持つ時、現状の苦しさを耐えることができます。
例え現状が幸せに満ち溢れていても、将来に希望がなければ不安の中にいることになるのです。
病に倒れた時、闘病のさ中にある時、いつ治るか先が見えない不安が押し寄せてきます。
ですが、天国は既にあなたのものです。
主イエスを私の救い主と口をついて言えた瞬間、そう確実に思ったその瞬間、あなたは既に天国にいます。
天国は私たちの目には見えていませんが、死後だけのものではなく、今こうして生きている間にも居ることができるのです。
そこでは主イエスがいつもあなたを支え、手を握り、顔を上げさせてくれます。
今がどれほど辛くても、あなたの将来の希望は確かにあります。
ですから、今より少しだけでいいので顔を上に向けて生きましょう。あなたは苦しみの中にいても、なお幸いな人なのです。
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