村田沙耶香の『コンビニ人間』という本を読んだ。

(ネタバレあり)



主人公は、『普通の人間』とは感覚が異なる30代の女性。


彼女はコンビニでアルバイトをしている。



子どもの頃はどんな子だったかといえば…


公園で死んでいた小鳥を、焼き鳥が好きなお父さんのために(これを焼いて食べようと)家に持ち帰ろうとした、そんな子ども。


それを母親は慌てて咎め、空き地にお墓をつくって埋めた。


その辺の花を一緒に供え、

「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」

などと言ったが、彼女にはそれが理解できなかった。


茎を引きちぎって殺した花を供えて、何の意味があるのかと。



彼女は大学生のとき『コンビニ』でアルバイトをした。


そこは、マニュアル通りに動いていれば居心地のいい場所だった。


だから、結婚も就職もせずに、18年もの間ずっとコンビニでアルバイトをし続ける。


彼女は、『普通の人間』という架空の生き物を演じることはできなくても、コンビニエンスストアで『店員』という架空の生き物を演じることはできた。



それでも周りは、彼女には『普通の人間』であって欲しいと願う。


就職して経済の基盤をつくる、結婚して子どもをつくる、そうあって欲しいと願う。


しかし、彼女は『普通の人間』に興味はなかった。



彼女は、コンビニにとって合理的かどうかで全てを判断していた。


だから、コンビニが何を求めているか、どうなりたがっているか、手に取るようにわかった。


人間としていびつでも、細胞全部がコンビニのために存在していた。


彼女は、『コンビニ店員』という動物だった。



この世界は異物を認めたがらない。


『普通の人間』という皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えば認められる。


ところが、そこからはみ出すと、正しいか正しくないかに拘らず、異物は静かに削除されていく。


彼女にとっての逃げ場は、コンビニしかなかった…



そんな話である。


が、読み終えて少しゾッとした。


確かに世間は『普通の人間』を求めているとは思う。


しかし、そうでない人間を切り捨てようと考えるなら、それは恐ろしいことだからだ。


実はこの私も、彼女と似ている部分がある。


「皆んな、そうしてるんだから」

という言葉を聞くと、私は拒絶反応を起こす。


それは、

「皆んながしていることを、何故あなたはしないのか?」

と責め立てられているように感じてしまうのだ。


そうなると、へそ曲がりの私は余計にしたくなくなる。


だから私も、『普通の人間』ではない。


それでも、『普通の人間』を演じて来たつもりではある。


だが最近、私の考える普通と世間の普通がズレてきたように思う。


それでも今に合わせて『普通の人間』を演じるか?

主人公の女性のように「皆が不思議がる部分を、自分の人生から消去していく」か?

それとも「変なおじさん(じいさん)として、皆から煙たがられて生きていく」か?


さて、終末期の生き方は、どうしたものか?