さて、昨日はメグミさんの臨時講座。
最近気になる事をリストアップしてもらい、片っ端から「解放」するという試みです。
「解放」とは何か?
「解放」とは、気になることを手放して、「気にならなくなる」ことです。
私たちはつい、気になることを「解決」しようとしますが、実は解決の近道は、「気になる気持ち」そのものを手放すことにあります。
たとえば、子どもが玄関で靴を脱ぎっぱなしにして、揃えないことが気になっているとします。
このとき私たちは、注意し続けることで「相手を自分の思い通りにする」方向へ向かいがちです。
つまり、一般的に言う「解決」とは、「相手を自分の思い通りにすること」なのです。
けれど、相手は自分とは違う価値観を持った存在ですから、思い通りには動いてくれません。
では、どうすればよいのでしょう?
それは「靴を揃えないのが気になる」という自分の思いを手放すことです。
手放すとは「我慢すること」ではない
こういう説明をすると、「じゃあ、靴を脱ぎっぱなしにしていても、気にならないように我慢するということですか?」と聞かれることがありますが、そうではありません。
この世界は「思いが現実をつくる」と言われています。
今目の前の現実は「自分の思い」が映し出されたものです。
「気になる気持ち」を持ち続ける限り、それを反映した現実が居座り続けるのです。
逆に、自分が「気にしない自分」になれば、自然と気にさせない現実が現れてきます。
ですから、現実を変えたければ、自分の内側にある「気になる思い」を手放すのが手っ取り早い方法です。
気にしている現実がある
→気にする「思い」がその現実を作っている
→その「思い」を手放す(=解放する)
→現実が変わる
「結果を変えるための解放」にしてしまうのはNG
★じゃあ、「靴を揃えないのが気になる」という気持ちを手放せば、その結果として「靴を揃えるようになる世界」が現れるということですね?
……と、思われる方もいるかもしれません。
その場合は、まだ「変えたい」という執着が残っています。
「靴を揃えるか揃えないか」に、まだ心がとらわれている状態です。
心の奥にはまだコントロール欲が残っているのです。
本当の意味で思いを手放すとは、どんな結果になっても自分の内側が揺れなくなること。
そこに立てたとき、現実は自然と変化していきます。
解放は「心を自由にする」ためのもの
★でも、子供に靴を揃えさせたいのだから、仮に気持ちを手放しても「靴を揃えない」という現実が続くのなら、解放しても仕方がない
……と感じるのだとしたら。
それは、「解放=現実を変える手段」と捉えているからです。
その時点でまだ「思い通りにしようとする気持ち」に縛られています。
「解放」は、自分の内側を自由にすることが目的です。
現実を動かすためのテクニックではありません。
子どもが靴を揃えようと揃えまいと、自分の心が穏やかでいられる。
この状態が「本当の解放」です。
結果として、現実が変わることもありますが、それは「変えよう」として起きるのではなく、「変えたい」という執着を手放したときに、自然と訪れる変化です。
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