さて、先日(8/4)の講座ではポジティブYokoさんがリクエストに応じて遊びに来てくれました。
相変わらずポジティブパワー全開!! で、同席していた生徒さんたちは「すごい元気をもらえる~!」って。
いつも「幸せ!」「楽しい!」を連発のYokoさんが、珍しく「マサコさん、話し、聞いて下さい!」って。
中学生のお子さんが部活に入った、
保護者間でグループLINEを作り、連絡事項等を回すことになった、
(くじ引き?で)Yokoさんがそのまとめ役になった。
後日、ひとりの保護者から、自分だけグループに招待されていないとクレームの連絡があった、
確認したところ、招待はされていたので、本人の勘違いか、手違いと思われる。
招待されていると連絡するも、「来てない」と言い張り、Yokoさんのミスを責めるかのような手厳しいメールがくる。
Yoko:明らかに相手の勘違いだし、ほかの保護者もそれに気づいて、「私から(証拠を見せて)、言ってあげようか?」と申し出てくれたんだけど、まあ、いいやと思って、
Yoko:いやな思いをさせてごめんね、これからは気をつけるね」みたいな連絡したの。
自分に非がないのはわかってたし、今までならそれを突きつけるとこだけど、今回はすんなりと、彼女が気が済むのならまあいっか、って思って。
こっちがそういうふうにしたら、向こうも、「自分も手伝えることがあったら協力するので言って下さいね~」みたいな返事がきて、穏便に終わったの。
自分にとって、今までにない展開だというYokoさん。
そうですよね~。
正論をぶつけても、相手はきっと自分は間違ってないと言い張るか、
あるいは、ほらほら、あなたが間違ってるのよ! と証拠を突きつけてねじ伏せたところで、仮に相手が自分の勘違いと気づいても、Yokoさんに対しては嫌な感情を残すことでしょう。
私も同じような経験をしたことを思い出しました。
それは8年前のことです。
以前講座を習った先生とたまたま再会したのをきっかけに、友人も加わって、3人で「解放」の練習を行ったときのこと。
私が先生のブロックを解放することになりました。
「子供のことをやってほしい」というリクエストに応えて視ようとしたところ、(それよりも、こっちをやらなきゃ)というイメージが降ってきたので、
先生に、
「ほかにやった方がいいものがあるみたいなので、そっちでもいいですか?」
と聞いてみました。
先生は黙っていたので、了承を得たものと思い、視にいくと・・。
途中で、先生がはっとした顔で、
「私は子供のことを視てと言ったのに! (頼んでもいない)人の領域に勝手に踏み込まれるのは、私は嫌なの!」
そして、こう言ったのです。
「マサコさんは信用できないから、(友人の方を見て)○○ちゃん、やってくれる?」
頭の中が真っ白になりました。
ちゃんと説明したよね?
許可を得たよね?
でも、先生ですから言い返すことも出来ず、その場では飲み込むしかありませんでした。
あんなにいつも「人に対する言葉に気をつけましょう」と、「人を傷つける、傷つけられる」ことに敏感な先生が、本人に向かって「あなたは信用できない」なんて・・・。
翌日、友人と電話で話していたら、
「マサコさんがほかの解放が浮かんできたから、それをやってもいいですか? って聞いたのに、なんで先生、あんなこと言ったのかと不思議に思った」
と言います。
私:え~、なんであの場で言ってくれなかったの?
友人:だって、先生に向かってそんなこと、言えないじゃない。
先生にメールを送って抗議しようかしら。
先生の勘違いですよ、ほら、友人だってちゃんと聞いていたんですから、って。
ところが、「どう思う?」と聞くと、友人が、「私ならほっとくかな」って。
私:え? そうなの?
友人:うん、別にもういいやって。
そうなんだ~。
そっか。
私も思い直しました。
考えてみれば先生は繊細な方なので、
「私はちゃんと許可をとったし、友人だって聞いていましたよ、あなたが聞いてなかっただけですよね?」
なんて言おうものなら、気にしてしまうかもしれません。
それにこのとき、私は青森の霊能者、木村藤子先生のことを思い出していました。
あのとき、私は椅子に座っていただけで、一言も言葉を発していないにも関わらず、罵倒されたのです。
★この話です
しかし、それは「揺さぶり」であり、短時間で「気づき」を得るための強行手段でした。
先生はその役を演じさせられただけです。
それで、今回も先生は私のために「演じさせられた」のではないかと思いました。
これほどベテランの人であっても、自分の勘違いから人を傷つけることがある。
それはきっと私だって同じ。
知らないだけで、人を傷つけてることがあるかもしれない。
友人同士なら指摘できても、私が「教える」立場であれば、生徒さんたちはやはり飲み込むかもしれない。
私だってそうやって許されているんだと。
人はそんなふうに互いに許し合っているのだと。
今回のYokoさんの話を聞きながら、相手の間違いを指摘して正論を振りかざしたところで、お互いに嫌な感情が残るだけなのだから、
(自分は悪くないのだけれど)相手の気持ちに寄り添って、
「そうだね、嫌な思いをさせてごめんね」って言ってあげるのも「愛」だなと思いました。
(もちろん内容にもよりますが)
私:Yokoさん、それって、「愛」がある方にしかできないの。
愛のある人がそうやって見本を見せてあげるんだよ。
そしてね、その人はいつか自分が逆の立場に立ったときに、
(ああ、自分も以前そんなふうに愛を持って接してもらった)って気づくときがきて、次の人に同じようにしてあげられるの。
そうやって、愛を学んだ人から順順に教えていってあげるんだと思うよ。
なぜなら、私自身が今になってそう思えるからです。
ある日突然、気づく時がくるのです。
「あのとき、もしかしたら私の方が間違っていたのに、相手はそんなふうに言ってくれたのかも」って。
そのときはわからなくても、ちゃんと潜在意識には残っているのだ思います。
正論では、人は変えられない。
人は、愛でしか変えられない。
歳を重ねるごとにその想いは強くなります。
本当に人は愛を学ぶために輪廻転生しているのだなあって。
人は「愛」の生き物なので、魂に戻ったときは、相手への憎しみや怒りはすべて手放して許しています。
(ですから生まれ変わって、相手に復讐したり仕返しをしたりすることは100%あり得ません)
逆に、相手へ行った「愛と裏返し」の言動は、罪悪感、後悔、自責の念となって残り、転生しても持ち越してきます。
だからこそ、今の時代、「解放(清算)」が必要なのです。
その解放を手伝うために、かつての被害者が転生して関わってくるケースもとても多いのです。
過去世を視るたびに、その仕組みに感動します。
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『過去世診療所〈実例集①〉』~2014年度分
『過去世診療所〈実例集②〉』~2015年度分
『過去世診療所〈実例集③〉』~2016年度分
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『過去世診療所〈実例集⑤〉』~2018年度分
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