横浜市電がもし残っていたら | ボンタンの考察会

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今日はエイプリルフール。で思い出したけど、最近は架鉄をやってないな。と。もはや、横藤電車への熱は冷めてしまって、続ける気はなくなってしまった。まあそれでも結構持続はしたと思う。

昔の話はさておき、私のツイッターを見ている人なら気付いていると思うかもしれないが、何カ月前からか、「もしも横浜市電が残っていたら」なんてことを真剣に考えている。
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横浜市電の廃止は1972年の3月31日。今から40年以上も前の事で多くの市民は市電が走っていたことを知らず、私も走っている姿などみたことはない。ということで、横浜市電について少しおさらいしておきたい。

横浜市電のはじまりは、今から100年以上前の1904年にさかのぼる。当時は横浜電気鉄道という民営の会社で、現在の神奈川と桜木町の辺りを結んだ。その後、本牧や弘明寺方面に路線を伸ばしていったが、大正期に運賃値上げの申請をしたところ、市民は猛反対。これが直接の原因となり、1921年に市が買収。ここに横浜市電気局(横浜市電)が誕生した。
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▲大正期の市電路線図

1923年には関東大震災が発生し、市電も多くの被害を受けたが、むしろ市はこれをチャンスととらえ、復興事業の中で道路幅拡充と共に市電の路線付け替え・路線拡充も盛り込まれ、昭和初期には震災前よりも立派なものとなった。それを象徴するかのように、ロマンスカーの導入や納涼電車の運転、女性車掌の登場など、正しく市電は日本最大の港町横浜を走る電車として相応しいものとなった。
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▲市電復興計画図

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▲昭和3年登場の500形。中華風の模様が港町の市電を感じさせる。

しかし、次第に戦時色が濃くなっていき、1945年には横浜大空襲を受け市電は壊滅的となってしまった。戦争は終わり1946年、電気局は交通局に改称され市バスと共に、また再出発することとなる。終戦時には人口が62万人に落ち込んでいた横浜市だったが、1951年には100万人を突破するなど、急速に発展を遂げ、それに応えるよう市電も新型車の増備、さらに路線の拡大も行われた。そして1959年には路線長51kmとなり、一日30万人もの人が利用し最盛期を迎えたのであった。
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▲最盛期を迎えた頃の市電系統図

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▲戦後の市電の主力として活躍した1500形

二度の危機から、不死鳥のごとく復活を遂げた市電だったが、各都市と同様に自動車の波に飲み込まれ、廃線への一途を辿っていき、1972年には全廃となってしまった。幸いにも市電は滝頭の工場跡地に開館した「市電保存館」や野毛山動物園、久良岐公園などに多くの車両が保存され、最近では「市電保存館」がリニューアル、さらに久良岐公園の保存車も神奈川新聞によってお色直しされ、今でも市民に往時の活躍を偲ばせてくれている。
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▲横浜市電保存館で余生を過ごす歴代の名優達

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▲神奈川新聞によって往時の姿に蘇った1156号

少しおさらいするつもり、随分話が長くなってしまってすまない。
しかし、そんな市電が今でも残っていたらと考えると、非常に面白い。本牧は陸の孤島にはならなかった。さらにみなとみらい21の開発と共に、市電も新線を開通させ超低床の5連接車とか走っていたかもしれない。開港祭には花電車が列を並べて走っていた…妄想は止まらない。

詳しい話はもう少し話をまとめたいということで、ではまた!
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