FOMC声明文 自分用翻訳
引用 FRB ホームページ
http://www.federalreserve.gov/newsevents/default.htm
Federal Open Market Committee
decided today to
keep its target for the federal funds rate
at 2 percent.
Economic activity expanded in the second quarter, partly reflecting
growth in consumer spending and exports.
第2四半期は、家計消費支出の上昇と輸出の伸びをいくらか反映して、
経済活動は拡大している。
However, labor markets have softened further and financial markets
remain under considerable stress.
しかし、労働市場は更に緩み、金融市場も深刻なストレス下におかれている。
Tight credit conditions, the ongoing housing contraction,
and elevated energy prices are likely to weigh on economic growth
over the next few quarters.
きつめの信用状況と継続して調整中の住宅建設とエネルギー価格上昇は、
この先の数四半期にわたり、経済成長を圧迫するかもしれない。
Over time, the substantial easing of monetary policy,
combined with ongoing measures to foster market liquidity,
should help to promote moderate economic growth.
今までのところ、これまでの金融緩和政策が、現在も続く流動性供給と
ともに、 この先の緩やかな成長達成を助けるだろう。
Inflation has been high, spurred by the earlier increases in the prices
of energy and some other commodities, and some indicators of inflation
expectations have been elevated.
いままでのエネルギー価格、商品相場の上昇を受けて(spurred)インフレは
高どまりしており、インフレ期待を示すいくつかのの指標も上昇している。
The Committee expects inflation to moderate later
this year and next year,
but the inflation outlook remains highly uncertain.
(本)委員会は今年後半から来年にかけてインフレが鈍化することを期待する
が、インフレ見通しには高い不確実性が残っている。
Although downside risks to growth remain, the upside risks
to inflation are also of significant concern to the Committee.
成長の下触れリスクが残るものの、インフレ上昇リスクも(本)委員会の
重大な関心事である。
The Committee will continue to monitor economic and
financial developments and will act as needed to promote
sustainable economic growth and price stability.
委員会は引き続き、経済、金融情勢を監視し、持続的経済成長と
価格の安定に資するために、必要な行動をとるだろう。
Voting for the FOMC monetary policy action were:
賛成票は以下のとおり
Voting for the FOMC monetary policy action were:
Ben S. Bernanke, Chairman;
Timothy F. Geithner, Vice Chairman;
Elizabeth A. Duke;
Donald L. Kohn;
Randall S. Kroszner;
Frederic S. Mishkin;
Sandra Pianalto;
Charles I. Plosser;
Gary H. Stern;
and Kevin M. Warsh.
Voting against was Richard W. Fisher,
who preferred an increase in the target
for the federal funds rate at this meeting.
反対票が1票だけですね。。。事前予想(3票)よりは少ないですが、さて?
前回までのタカ派さん。
6月の据え置き反対 Richard W. Fisher,
4月の利下げへの反対 Richard W. Fisher,Charles I. Plosser
3月の利下げへの反対 Richard W. Fisher,Charles I. Plosser
市場で生き残る最も大事な術
最近の市場の動きは、普段とはかなり違います。
いろいろな人が様々な解説をしていますが、しっくりきてますか?
今週は投資関係のブログへ書き込みやCHATの参加者もかなり
少なくなったという話を聞きまいた。
また個人的に今の相場おかしいですよね?というメッセージを
もらったり個別にお話したりがとても多いです。
※ おじさんからの場合が多いですね(笑)。
このことが即、「暴落」などにつながるかどうかは不明です。
心配も何もしていないときの大事件は暴落をまねきますが、
それは事前には分からない?ですし未来のことは分からない。
変化はチャンスですから、一発博打をうって成り上がってやろう
という方は かまいませんのでがんがんいってください。(笑)
しかし、そうでない方でもし今の市場の空気どうもいつもとおかしい。
どうなるのか、なんとなく想像もつくのだけれど確信が持てない。
なんだか怪しい? 空気が違う? 匂いが違う?
もしそんなことを感じた場合には、何もやらないことがBESTです。
はっきりしてくるようなことがあればそこで始めればいい。
ところで、
証券金融市場(特にデリバティブ)のほかの経済主体に比べて
最も有利なポイントを書いておきます。
それは、
ビジネスをいったん中止することが極めて簡単にできる。
ほかの商売ではこうは行きません。
良く分からないけど、おおきく動きそうならば大もうけする
チャンスであるともいえるのでなんとなく持ったまま待ってみますか
※ これも一理ありますが、上記の証券の優位性を
まったく生かしていません。
わからなければ、しばらくやめて冷静に市場を見る。
ある師匠の言葉
休むことが一番大事
休めない中毒患者も多いのですが、それは別の視点からは
微妙な匂いをかぎ取れていないのかもしれません。
臭ければやらなきゃいい、儲け損なったことよりも損しなかったことに
満足を感じる
○ 金融証券市場のようなゼロサム市場で行われているゲームとは
賢い優秀な奴が勝ち残っていくゲームなどではなく
失敗した、下手うった敗者が退場していくゲームなんでしょう
ここのポイント 敗者 ≠ 弱者 (ノットイコールです)
アービトラージやスキャルピング、さらにテクニカルでの取引とは
いってみれば誰かが不合理な行動をとったがゆえに成り立たつわけです。
※ 誰かの失敗が不可欠 ということ
○ 最後に、僕らはこの市場で不穏な何かを感じますが
それが絶対に現実化するかはわかりません。
今の市場がどの程度おかしいのか?についても最終的には
個々人の判断に任せるしかありません。
脅かしているわけでもありませんし、あとになってそんなに
大げさなこと起こらなかったでしょということになれば
それはそれで、次の参加権が剥奪されなかったということで
良しとしましょう。
○ いつもの呪文を唱えます。
「投資判断は自己責任で」お願いいたします。(笑)
一人の死は、決して一人の死ではない
今日もまた、無差別殺人事件が起こり日本の治安は
どうなるのだろうという漠然とした不安もあるのですが
そんなことより,まずは
事件にあわれ,お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
先日、ウガンダさんが亡くなられ、その前にアナウンサーの川田さんが
自殺で亡くなられましたが、最近、人が亡くなる話がやたらに 目に付く
ような気がします。 ようするに年をとったということかしら?
そのたびにテレビなどに映される、残された方々の悲しみに、
映像を通じて触れるのですが、本当に悲しくなります。
ただ部外者たる私たちは、すぐにそこから日常に帰ってきます。
去年のはじめの出来事でしたが、本当に心が痛んだのが
「風見しんご」さんのお嬢さんが交通事故で亡くなられた時でした。
これは本当にきつかった。
同じ年頃の娘をもつ者にとっては「娘の死」などということは、
自分の死なんかとは比べようもないほど大変な不幸で、
それは世界が100万回破壊され消滅することよりも大きな
悲しみであるわけで、 風見しんごさんの映像を見ていて本当に
涙が止まらなかったものですし 今でも思い出すだけで
涙が出てきます。
ここでちょっと仏教から話を引用します。
先日亡くなった師匠であるあのお坊さんは、いったい、今どこに
いるんだろう?という会話が、残った弟子の間で交わされる
ところから始まり、結局、ほとんどは灰になり、その一部が煙に
なって空に消えまさに完全になくなっってしまったのだろうという
非常に当たり前の結論にいたる、あまり宗教らしからぬ
話があります。
一個の人間の存在とはそれほどにはかないものであって、
死んでしまったら何も残らないし、魂など肉体を離れて存在せず、
地獄に言ったり天国(極楽)にいったりするわけではない。
ということでしょうか?
ここで、死後の魂の話を深くするつもりはありません。
無意識的無神論が主流を占め、宗教話が暗黙のタブーに
なっている現代の日本社会において自らを含む人の「死」は、
その個人が物理的に消えてなくなる側面ばかりが強調されて
いるような気がします。
少々具体的にいってみると、現代日本に住む私たちは、
科学的に合理的に説明できない物は受け入れないという思考
方法に慣れてしまったことがすべての原因であるとは
言い切きったりはしませんが、 「死」について以下のように
単純化して考えてやしないだろうか? と
思っていたりするのです。
つまり、今の私たちにとっての単純な死に対するイメージとは
人間の個の消滅(とくに自分の死を考えたときに)の部分ばかり
が気にされているように思えるのです。
あたかも「死」とは、生の終了という一過性のイベント部分
ばかりが想定されていて、言い換えると「死」とは一瞬の出来事で、
それは死んじゃう直前の苦しみは相当厳しい物であるかもしれない
という連想まではできたとしても、その生が終了した瞬間さえ
乗り切れば何もない世界(無の世界にはいって)にいたる、
まさに通過するポイントのような物が「死」であるかのように
現代人は思ってやしないだろうか?と
僕は疑ってかかっています。
「死」が完結した時点で、すべてが完結し苦痛もそこですべて
消滅する。
子供のころ僕自身が自分で考えた時の「死」のイメージはまさに
こんな程度のものでありました。
そう考えると死は、その瞬間さえ苦痛が少なければたいして
大きな問題ではなくなります。
そのポイントを苦痛なく通過しさえすれば自分にとって
すべては「無」に帰結し、その後に起こるすべてのことに対して
責任などは一切とらなくてもよいわけです。
ある意味では非常に気楽な現象に見えてきます。
かような思考の元では、人の命の尊厳など、いくら倫理や道徳を
使って説明したところで、心のそこから「命こそ」が大事である
という思いにいたるほうが不自然であるとさえ思ったりもします。
ここでタイトルに戻って、再びこの思考の再考をしたいと思います。
一人の死は、決して一人の死ではない
○ 人間が生まれたということは、必ず両親がいたということです。
○ またここまで生き延びてきたということは、必ず何かを
食べていたわけです。
この二点はどうやったって覆すことのできない紛れもない事実です。
つまりどんなに今現在、一日まったく誰とも話をしなくても事が足りる
環境にあったとしても、またすべての買い物がインターネットで
済んでしまう世の中が、近い将来やって来たとしても、人間の存在が
完全にその本人(個人)にしか依存しないということは
ありえないわけです。
僕は子供のころは、実はこの考えを心から肯定していたわけでは
ありません。 どこか、自分なんかが、居なくなっても、世の中そんなに
おおきく変わらないよということを、心の底で思っていたし、
自分の存在が社会に不可欠なんて思えるほうが少数派のような
気が今もしています。
その考え方が、おおきく変わったと思えたのは、実際に娘が
生まれたときにを経過した後であります。
自分が死んじゃったらこの子が路頭に迷っちゃうという物理的、
経済的な話もあるのですが、もしこの娘が、いなくなっちゃったら
どんなにこの自分自身が悲しいかを(理屈や前提なしに)体で
感じるに至ったときに、やっと自分の死が、自分の親に
とってもそういう対象であったのかしら? と思えたのです。
ここにおいて、この人を失なったらどんなに悲しいだろうという人に
めぐり合えるか?がかなり重要な問題であろうと思います。
しかし、たった一人であったとしてもこのように
「本当に心のそこから失うことを容認できない存在」が生まれて
以降、 人の死がほかの人に与える、非常に厳しく悲しい影響を
ヒシヒシと感じるようになったんです。
それまでは、自分自身がほかの人の死に遭遇して実は本当に
悲しい思いをしていたことにさえ気がついていなかったことに
気がついたのようなのです。
世の中は、実は、ほかの人の死を悲しく残念に思う人
だらけだったんです。
自分が生きている限り、自分が生まれて以降に出合っってきた
多くの人々の「死」の場面に今まで遭遇してきましたし、
これからも遭遇していくわけであります。
そしてその亡くなられた方のことを思い出すたびに悲しい思いも
(それだけではないにしても)蘇ってくるわけです。
その方自身の生き方や、また亡くなられ方によって、その気持ちに
違いがあるとしても、その方に会いたいと思っても、どうしようもない
のがその方の「死」なのです。
「死」は一瞬にして終了するイベントではありません。
残された人が一人でも居る限り、亡くなられた方の「死」は
続いていくのです。
少なくとも世の中に、その方を記憶されている方が一人でも居る限り
終わらないのです。
ここで、魂の永遠性について語るのは、正直どうかと思いますが、
幸運にも僕自身が娘よりも先に死んで、娘の死がその後のことに
なったであろうとしても、そのことについて今現在の僕は
大いに心配していますし大いに不安を感じているのであります。
そしてここに僕がかように思った気持ちがこの世に存在した
ということ自体は、永遠に消えることはありません。
「死」は肉体の消滅のみで完結する物では決してないということ。
「死」は残された多くに人たちにとってこそ問題であるということ。
この二点に対する意識が強力に根底にあったとしたら、自らが
積極的にも消極的にも、「人の命を奪う」ということに対して、
どんなに追い詰められていた情況にあったとしても、
かなり躊躇するのが人間なのではないのでしょうか?
人間の「死」は一人の「死」ではなくそのなくなった方の
周りにいらっしゃる何倍の人数の方々にとって、
より深刻で直接的な悲しい出来事であるということ。
これは殺人においてその被害者の周りの方々の深い悲しみも
もちろんですが、犯人自身の周りの方々に与える悲しみも
これまたかなりシビアで強烈に深い物であるでしょう。
そしてその犯人が「死刑」により「死」いたったとしたら
その後の周囲の人々の悲しみについては、もう想像さえできません。
ここまで想像してみると、むやみに人を殺せる人がいると
思うほうが不自然に思えてきます。
想像力の欠如が問題なのかもしれませんが、、、
また、ここにおいてさまざまな宗教が「自殺」について
重罪として禁止している理由も明らかになったと思いますので、
これについては詳しくは述べません。
※ ただし(体や心の)病気などで本当に生きていることそのものが
苦痛であり耐えられない状態になってしまった方の場合も同じように
考えるべきとは、まだ僕は言い切ることができません。
よく「生きる」こと、そして「死ぬ」こととは、
決して「個人の自由の問題」で片付けられるわけがないのです。