流れるような計算されたリズム。
豪華な俳優たちが、一つ一つのパートを奏でる楽器のように、見事に構成されたオーケストラだった。
リアリズムを排除し、先人たちが築き上げた伝統的様式性を用いりながら、ウェス・アンダーソン独自の世界観を見せている。
サスペンスとコメディを合わせたテッパンネタで、見事な芸術的娯楽作品を作り上げた。
まず目に入るのは、その映像の美しさである。執拗なまでのシンメトリーの構図が美しい。勿論、完璧なシンメトリーではなく、必ずどこかで均衡を崩す要素を入れ、美学の基礎的手法を周到している。
一点透視の世界観を維持するカメラの直線的移動などに、スタンリー・キューブリックの影響が多く見られるが、キューブリックの表現では、シンメトリーが不安を煽るのに対し、ウェス・アンダーソンの作品では、色の鮮やかさも含めて、暖かみのある絵画のような美しさを演出している。
カメラはほぼ固定で、移動する場合はドリー撮影。それも曲線のレールを使わず、前後と左右にしか動かない。また、パンはきっちり90度しか動かさない。クレーン撮影に於いても、上下のパンニングのみ。クレーンとドリーを組み合わせた立体的で複雑な動きを一切排除している。
時代の表現として、画角を変えており、ジュード・ロウのシーンはワイドスクリーンだが、過去のシーンでは、正方形の画角で見せている。
画面を絵画のように平面的表現で見せる事で、まるで絵本のような様式性の高い作品に仕上げている。
こういうスタイルで撮られる作品は、演技にも様式性が求められ、英国仕込みの表現主義俳優を多く揃える場合が多いのだが、意外にもアメリカのメソッド俳優が多くて驚いた。
表現主義の演技としては、ここでレイフ・ファインズが、英国俳優らしく様式的演技の本領を発揮している。
現代的リアリズム作品では、会話が浮いて、軽薄に見えてしまいがちな彼だが、様式性のある世界観では、彼の演技がとても活きる。世界最高の伝説のコンシェルジュを、流れるような格調高いセリフ回しで、リズミカルに演じている。
生ける芸術品=ティルダ様が『スノー・ピアサー』に続き、彼女の美貌を殺した特殊メイクで出演している。もう、彼女はアート作品にまでなったので、美しさに飽きてしまったのだろうか?ここでも彼女は楽しそうな演技を見せてくれている。
ジュード・ロウとトム・ウィルキンソンの格調高いセリフ回しにもリズムがあり、語りべとしての役をしっかりと抑えた配役だ。
以上の4人だけが、英国でシェイクスピア劇を学んだアカデミックな演技をする表現主義俳優たちだ。
その他は、1人を除き、アメリカのリアリズムな演技を学んだメソッド俳優で固めている。
メソッドの演技法では、行動に理由が必要になる。例えばふと見上げる演技で、見上げる為のきっかけを探すのがメソッド俳優だ。鳥の声が聞こえたとか、神にすがろうと思ったなどの、内面的理由が必要となる。
対して表現主義の俳優は、要求された見上げる角度や、その姿の美しさを模索する。
表現主義は、どう見えるかを重視し、客観的視点から演技を作り、美しい演技を生み出すが、メソッドでは、精神的な面まで演技を作り、内面から行動を作り、自然でリアルな演技作り出す。
一般的には、表現主義はアドリブが苦手で、メソッド俳優は役柄によって、精神的負荷が大きいと言われている。
アメリカの俳優の中でもF・マーレイ・エイブラハムとジェフ・ゴールドブラムは、リズミカルな様式性のある演技をしていた。エイブラハムは『アマデウス』のサリエリ役などで有名。舞台で古典劇も演じる名優である。
ゴールドブラムはアクタースクールなどで、メソッド演技法の指導もする、メソッドマスターだ。普段、メソッド俳優はこのような格調高い様式性のある演技は見せないが、さすがは演技の先生。作品に合わせた演技手法を使い分ける事ができるようだ。
その他、エドワード・ノートン、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ハーヴェイ・カイテルらは、リアルな演技に定評のある生粋のメソッド俳優である。
その中でひときわ異彩を放つ演技をしているのは、マチュー・アマルリックだ。彼は、フランスのマイムを基礎とした身体表現を得意とする英国式とは異なる表現主義の俳優である。言葉数の少ないセルジュXの謎めいた行動を怪しく演じている。
リアリズムで描かれる事が多いハリウッド映画では、メソッド俳優を多く使う。リアリズムの中で、様式的表現主義の俳優は、とても異質な存在になり、時には格調高く、時にはコミカルに、時には恐ろしい存在になったり、作品の良いアクセントになる。ハリウッド映画では英国人俳優は、悪役として登場する事が多い。だが、ウェス・アンダーソンは、様式的美学の中に、リアリズムの俳優を置く事で、化学変化を狙っている。演技法の違う俳優同士が会話すれば、そのリズムに独特の変調が生じ、ユニークな演技が生まれるのだ。
『グランド・ブダペスト・ホテル』では、様式的な世界観を作り出し、表現主義の俳優をメインに据えてはいるが、脇を固めるのはメソッド俳優たちだ。様式性の中で彼らは、新米の歌舞伎俳優のようにぎこちない。
マダムD.の葬儀の順番に殴るシーンでも、ウィレム・デフォーが見栄を切る場面があるが、ベテランのメソッド俳優が表現主義的な演技をすると、キメ切れてない感じがぎこちなくて、とてもコミカルだ。
グスタブが殺人の容疑をかけられ突然逃げ出すシーンでは、見事な効果を生んでいる。表現主義の俳優は、いきなり態度を変えて華麗に逃走するのだが、メソッド俳優たちは、突然の豹変に驚いてから追いかけるので、行動がワンテンポ遅れ、ドタバタと追いかける独特のリズムが生まれるのである。
ここではゼロやアガサの若い少年少女も、演技の未熟さが初々しく、そのまま若さに見えてくる。これも、様式性世界ならではの演出だ。リアリズムであれば、見れた物ではない未熟な演技でも、様式性演出の中では、歌舞伎の子役の様に、とても可愛らしく見えるのである。
ウェス・アンダーソンは、若手の監督ではあるが、古典をよく学んでいる事がよくわかる。映画だけでなく舞台や芸術などにも精通し、先人達が作った様式を自分の作品に取り入れ、新たな様式性を生み出している。色彩豊かなシンメトリーの映像作りにも定評はあるが、彼が作り上げた様式性の中にリアリズムを放り込み、化学反応を起こさせる特異な演出こそが、この若き監督の最大の個性であると言えるかも知れない。