『青天の霹靂』感想。マジシャンとしての道を生きるという事。 | まじさんの映画自由研究帳

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オイラは北野武を含め、タレント監督映画に全く興味がないのだが、マジシャンの話なので、観ない訳にはいかなかった。

あまり期待はしていなかったのだがとても丁寧に、生きていく事の難しさをテーマに描いていて、爽やかな感動があった。つまらない人生が、ちょっとだけ良くなる話でほっこりした。
現代の売れないマジシャンが、昭和48年にタイムスリップし、自分が産まれる前の両親と会うストーリーに、普遍的なテーマを見せている。
笑いの中に、生きる事の難しさとその意味を問う。

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現実のプロマジシャンも、食って行くのはかなり厳しい。時給ではなく、1ステージ単位のギャラなので、一日待機して出番が無ければノーギャラだ。マジックだけで1ヶ月10万円以上稼げたら、かなりデキるヤツだ。腕が上がっても勤続年数が長くても、同じ場所で働く限り昇給はない。ギャラを上げるなら、そこをやめて、新しい所へ売り込まねばならない。お笑い芸人とは違い、マジックのネタを仕入れねばならない。マジック用品は高額なものも多く、消耗品も多い。経費もかかるのだ。主人公の自宅で、商売道具であるトランプやマジック関連のグッズや本が水浸しになるシーンがあるが、諸君らが思うよりも被害金額は高く、彼のショックもはるかに大きいのだ。
こういう所も、チクチクと心を突つかれる、痛痒い映画だった。

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お笑いのシーンはどれも面白く、流石はお笑いのプロといった感じだ。オカママジシャンのスプーン曲げで「フニャフニャ~❤︎」には、思わず笑ったwインド人のぺぺさんや、中国人のチンさんと言う芸風は、昭和の奇術師、ゼンジー北京を彷彿とさせる。また、ユリ・ゲラーのスプーン曲げを先取りするなど、昭和の寄席の時代感をうまく見せていた。

『青天の霹靂』と言うタイトルは、作品を表している訳ではないが、タイムスリップの原因にマクガフィンを持ち込んではいないので、このタイトルは正解だと思った。
「なんでタイムスリップするの?」
「だって青天の霹靂だもん」でカタが付く力技だw
また、ラストシーンに再生があり、タイムパラドックスが起こったのではないかと匂わす辺りが、SF映画ファンをニヤリとさせる仕掛けになっている。

大泉洋が、鬱な感じの演技を見せているのは珍しい。いつもの脳天気さを抑えた、いいキャラクターだと思った。

劇団ひとりは、身勝手な若き父親を好演している。ヒドイ男なのだが、彼の人の良さそうな顔が、それをマイルドにしていて絶妙だ。

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柴咲コウの演技も良かった。チャイナドレスを着てマジックの助手をやらすのは、仲間由紀恵のアレを彷彿とさせ、痛々しい感じもあったが、彼女の眼光に、嘘や隠し事を見抜くという説得力があって、それは良かった。だがそれだけに、その眼の鋭さに生命力を感じ、病弱さはイマイチ感じられなかったのは残念だ。強くて弱い、男の理想像(多分、監督の理想像w)と言う難しい役どころを健気に演じていた。

昭和の浅草雷門ホールの席亭を、風間杜夫が演じているのがとてもいい。派手なジャケットを着て、いかにも江戸っ子の成り上がり者だ。金色の電話がポイント高い!が、「支配人」と呼ばれている事に違和感。ココはやっぱ、席亭と呼んでくんなきゃぁいけねぇなぁ~。

あと、現代のマジックバーのオーナー役に、ナポレオンズのパルト小石が出演していたのは、ニヤリとさせられる。得意技である“あったまぐるぐる”の簡易バージョンが観られるのも嬉しいサービスだ。今回は小石至誠とクレジットされ、本名での出演だが、我々マジック愛好家にはパルトさんの方が馴染み深い。

細かな点としては、昭和48年の少年の表現が少々現代的だった。「ねぇ、マジシャンなの?」と言うセリフに違和感を感じる。昭和の時代は「手品師」の方が一般的だった。手品師をマジシャンと呼ぶようになったのは、平成に入ってMr.マリックが登場した頃からだ。
また、子供達の足が長い。昭和の子供達はみんな短足だった。これは『三丁目の夕日』や『20世紀少年』でも、感じた事だが、生活様式の変化で、正座の生活から椅子の生活に変わり、子役に短足がいなくなってしまった。今後の昭和時代を描く映画にも、コレを毎度感じてしまうのかと思うといささか残念ではあるが、子役たちの生活を考えれば、仕方ない事かも知れない。

さて、ここからはマジック愛好家としての目線で語ってみよう。
まず、大泉洋が思った以上にちゃんとマジックをやってて驚いた。ギミックに頼るトリックは少なく、手の鍛錬が必要なスライハンド・マジックをこなしていた。ベテランとまでは言わないが、初心者ではなく、数年はやっているなと思わせる手捌きだった。これにはさすがの大泉洋も「なかなか上達せず、キツかった」と漏らしているが、そのスランプが演技に活きており、脚本が要求するナーバスな感じが出たようだ。役者と言うのはつくづく大変な仕事だなぁ、と思わせるエピソードである。

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何度も登場する“スプーン曲げ”には、毎回違うと言っていい程、複数のトリックを用いており、ネタバレしにくい工夫がされている。同じトリックを何度も使うとネタバレの可能性が高くなるからだ。

感心したのは、マジシャンが失敗して、タネがバレて笑われるシーンがない事だ。主人公のスランプを表現する為に、こういうシーンは欠かせないのだが、それをやらずにスランプを表現している。どんなに小さなネタでも種明かしを見せない点に、マジックに対するリスペクトが感じられた。
ラストの大泉洋のステージマジックの演技は、スタンダードなネタが多いのだが、昭和49年の時代を考えれば、当時としては最先端のマジックだった筈なので、あの大盛況も納得だ。金属の輪を繋げる“リンキング・リング”は古典的マジックだが、音をさせない最新のスマートな技法を使っている。当時はカチャカチャと音を出し、知恵の輪の様に見せる演技が主流だった。特にストーリーとリンクして印象的な効果を出しているマジック“フローティング・ローズ”は、1992年にケビン・ジェームスによって考案され、たちまち世界中のマジシャンに広まったネタなので、劇中の観客は、未来のマジックを観た事になる。まるで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の“ジョニー・B・グッド”のようではないか!
マジックシーンに特撮を使わないという姿勢にも好感が持てたが、映像向きではないネタもあったので、映像表現として、ちょっとはCGを使ってもいいんじゃないかな?と思ってしまった。
テーブル・マジックが主流の現代に、オールドスタイルのステージ・マジックをクライマックスに持って来るのは素晴らしい。しゃべりが苦手な主人公が独りで演じるには、ベストな選択である。そして、ステージ・マジックこそが、本来のマジックの花形であり、もっともカッコイイマジックである事を再認識させてくれる。
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今回、監督デビュー作と言う事もあり、余り期待はしていなかったが、日本の演芸を魅力的に取り入れたストーリーは、彼の得意とするところだろう。
芸名とは言え“劇団”を名乗るだけはある。総合的な演出力に長けているようだ。ひとつ劇団を率いるこの主宰の、今後の作品も、大きな期待を持って見守りたいと思う。




青天の霹靂 (幻冬舎文庫)