「県活講座」で久し振りの「邪馬台国」探求 | 星の小屋日記帳

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庭先に置いたキャンピングカーを「星の小屋」と名付けて憧れの小屋暮らしをしています。
星空観察、クラシック音楽鑑賞、歴史、自然観察、そして時々水彩画など多趣味な男のお喋りブログ、
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「県活論語」の秋のシーズンが終わり、2月にまた冬のシーズンを迎えるまでの謂わば「講閑期」の12月ー1月を狙って県活事務局が差し込んだ「邪馬台国論の現在」ニコニコ


案内を見るや12月に申込手続きをしました照れ



無類の歴史好きであった新潟の父の本棚や壁に作り込まれてガラス戸の付いた書棚の中には数多の所謂「邪馬台国モノ」の本が置かれていた。


そんなことで僕も興味を感じたこの「邪馬台国モノ」の本を小学校高学年、中学、高校、大学、社会人になってからも面白そうなものを抜き出しては読んできたモノだった。


特に中学2年で親が佐渡の支店に転勤となり、どうせ3-4年の任期だろうから、高校受験を控えたお前が佐渡の高校に進学すると、お前一人を佐渡に残してまた本土に戻ることになる。であれば今回お前は佐渡には一緒についてこず、数年前まで住んでいた長岡へ一人で行き、友人の家に下宿させてもらえることになったから、どうせなら進学校である長岡高校を目指しなさいってことになったわけ(><)


だから中学2年以来、高校、大学時代の長期休暇は佐渡に引っ越した実家や、予定通り本土の新潟市近隣の町の支店勤務となりもう会社員生活も転勤生活も最後になるからと父が初めて一戸建ての家を建て、そこがまた新しい実家になったモノだから特に大学時代の長期休暇や東京が拠点の会社に就職した時はその新潟市近郊の町の実家に帰省することになり、そこには幼馴染の友人がいるわけでもないので自然と親父の書棚から『新人物往来社』の月刊誌『歴史読本』を始め種々の歴史本を取り出しては寝転びながら読書をするというのが毎度の帰省時のパターンだったニヤリ

遊びに出かける幼馴染も居なかったから、大学時代、マンドリンクラブに所属していた時はよく一夏を潰してポップスやクラシック音楽をマンドリンオーケストラ用に編曲などもしたモノだった口笛


閑話休題、その実家で読み漁った父の「邪馬台国モノ」の本についての話に戻ります。


その時は学者(著者)によって邪馬台国が何処にあったのかという場所探しを「魏志倭人伝」の原文を捏ね繰り返しながら、北九州説をとるのか大和説を取るのか、そして魏の使いが九州上陸後女王卑弥呼が住む邪馬台国までの道程の国々は現在の何処に比定されるのかといったことがそれぞれの学者の腕の見せ所の様な解釈が山程登場し、それこそ著者の数だけ邪馬台国説は存在するという状況でした。


でも当時の主流派になるのは、より大陸や半島に近く交流が盛んであったろう北九州説に感じられ、僕も何ら確証のないまま北九州の何処かに在ったのだろうなとボンヤリと思う様になってきました😁


社会人になってからは佐賀で吉野ヶ里遺跡が発見され、高楼、宮殿、柵の跡が確認され、すわ邪馬台国が見つかったと注目を集めたり、比較的最近では奈良の三輪山麓近隣の纏向遺跡が発掘され倭人伝にある様な高楼や宮殿跡、運河が見つかったことから今度は俄然邪馬台国機内説が元気を吹き返して来た感が有ります😃


僕のブログでも「本棚」の書庫(テーマ)にありますが、⬇︎にある2冊の本『邪馬台国をとらえなおす』、そして「『邪馬台国と大和朝廷』を読んでみてからは、今の邪馬台国探しは「文献史学」(魏志のみでなく種々の中国正史や日本書紀などを元に研究するモノ)的な研究では限界が見えてきて(決着の決め手がつかない)、発掘調査による「考古学的な発見、研究が主流となってきている様だった。

興味深い言葉としては卑弥呼が魏からもらったという「親魏倭王」と掘られた金印が発見された場所が邪馬台国の所在地ではないかというモノニヤリ


そういえば昨年も佐賀の吉野ヶ里遺跡で王墓らしきモノを発掘したことがニュースになり、金印の発見が期待されましたが見つからなかった様ですね^_^


一方


奈良の纏向遺跡説で卑弥呼の墓ではないかと言われているすぐ近隣の箸墓古墳の発掘調査も期待されるところですが、宮内庁が皇室関係者の陵墓(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の陵墓ではないかと指定、管理しているので、発掘調査はなかなか出来ないと言われていますね(><)







長々と廻り道をしてきましたが、ここで冒頭の新たな県活講座のお話に戻りますダッシュ



講座名は邪馬台国論の現在』


講師の先生は千葉県佐倉市に在る国立歴史民俗博物館の仁藤敦史先生。


講座案内のチラシで事前に読むことを推奨されていた『卑弥呼と台代』👉台代(トヨ)は卑弥呼の宗女(一族の娘)で2代女王 をポチして事前に読んでおきました(ややこし〜)

したらコレ、先生の著書でした^_^




全5回の講座で14日に3回目の講義が終わりましたが、考古学者である先生の講座は、邪馬台国は何処に在ったのか、また卑弥呼とは一体誰であったのだろうかを説くモノではなく、これまでの纏向遺跡(奈良)の考古学的発見と調査から講義の前提を「邪馬台国=大和説」に立った上で進められて行きます。


先生のお話によれば、昔は文献史学的なアプローチが主流であり考古学は補助的な学問の位置付けであったが、今は考古学と文献史学を突き合わせて研究する必要があるとのことでしたニヤリ


前述した如く僕が漠然とながら感じていた大和説であったので、初回の講座からピッタンコとハマってしまいました滝汗


ついでながら僕が2010年(平城遷都1300年祭の折)に纏向遺跡と箸墓古墳を訪れた記事もリンクしておきます^_^ ⬇︎



さて、先生の書かれて先程購入したと書いたあの参考図書もそうですが、先生のお話の大きなポイントは誰しもが関心高い「邪馬台国の位置論」や「卑弥呼とは誰なのか論」ではなく、倭人伝に出て来る倭人の住む土地と中国の歴代王朝との関わり、そして卑弥呼が魏に遣いを出した時に遼東半島(ほら日露戦役に登場する旅順や大連が在る半島)や朝鮮半島北部の楽浪郡や新設されたその南の帯方郡を支配していた漢代や魏の時代の地方政権である公孫氏との関わりから、倭国という概念よりも「倭人」の概念での中国との結びつき、「倭国王」と「倭王」の使い分けから当時の大陸の人々が「倭」をどう捉えていたのかという観点でのお話が中心であり、邪馬台国の勉強にまた新たな視点を打ち出された様で新鮮な思いで受講をしております^_^


論語講座の冬のシーズンが始まるまで、後2回の講義になりますが、あの先生の書かれた『卑弥呼と台代』と同様にチョットなかなか付いて行きづらい講座なので毎回ドキドキ💓しながら(頭を抱えながら)受講してるってのが本音です👅



星の小屋にてキラキラ