龍馬伝から富岡製糸場への道最終章  | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

いよいよ最終章となりました..。
先日の上毛新聞によると、富岡市は富岡産生糸をフランスリヨンに送って織物にしてもらうとか..ただのパフォーマンスだけではいけません..先人たちが何を志して、この富岡の地に富岡製糸場を建設したのかをよく考えなければいけません。友人の曾祖父初代高井良吉は岐阜郡上八幡から、この富岡に土木基礎の職人としてやって来る..。メートル法と尺貫法がぶつかる、当然言葉の壁もある..そうした中で140年経っても数センチの歪みしかない基礎工事の確かさは見事である。それは棟瓦を見ればよくわかる..まさに明治人の職人の気骨である。その高井良吉は製糸場の仕事が終了した後は、高井組を興して、富岡最初の建設会社となっていくのである。我々は先人達のこうした思いを伝えていくことも..真の産業遺産だと思うのであります。

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     富岡製糸場西繭倉庫

1. 横井小楠の発案とされる「五箇条の御誓文」に端的に現れているように「知識をよく世界に求める」ことは西洋列強のあり方、生き方を学ぶことでもあった。形の上では独立国であるが、西洋の植民地、半植民地化の脅威が完全に消えたわけではない。依然として、西洋列強の脅威に晒されるという恐怖が完全に消えたわけではなかった。この不安から解放されるためには、完全なる独立、西洋列強に伍していく国力が必要であった。独立の基本は力強い経済力を身につけることで、是が非でも実現しなければならなかった。

では、独立を保障する経済力はこれをどう身につけていけばいいか。手本は西洋列強にあった。なぜ、イギリスは強大な国になり得たか。もしイギリスのようになりたければイギリスがやったようにすればいい。いずれにせよ、産業革命をいち早く終えたイギリスのような国造りが模範であったことに変わりはない。イギリスが強大になりえたのは繊維産業を興したからである。だとすれば、日本も繊維から近代化を強力に進めればいいことになる。富国策である。それも国家の威信を掲げての殖産興業、繊維政策であるから、短期間のうち外貨獲得が急がねばならなかった。

上毛カルタにも詠われているように、「日本で最初の富岡製糸」はこうした国家的戦略のもと突貫工事によって、フランスの技術を導入して誕生した訳である。このことは裏を返せば、それだけ近代化が急がれたからである。
国家的威信をかけて富岡製糸場は明治3年10月に本格的に始動するが、建設のスピードは目を見張るものがあった。設計図は12月26日に完成、渋沢栄一と初代工場長尾高惇忠は翌明治4年富岡入りし、現場に赴き手配に入る。同じ月ブリュナーは機械買い入れのためにフランスに赴く。3月に近隣の山から木材が調達され、礎石は甘楽町小畑から取り寄せた。突貫工事によって完成を見たのは明治5年7月であるから、そのスピードには驚かざるをえない。明治3年10月に取り決められ、本格工事に入るのは明治4年に入ってからであるから、実質1年7ケ月、2年弱という驚異的なスピードで完成したことになる。

2. 明治新政府は西洋列強と伍していくために、生糸生産による外貨の獲得を狙ったが和田英の「富岡日記」はその様子を模範工女の育成、短期間の技術習得、技術の全国展開など一工女の貴重な記録として残した。和田英は1年4ヶ月という短い期間にもかかわらず、一工女としての視点からその様子を丹念に記録している。「富岡日記」は前期、後期に分かれている。前期は伝習性として、後期は技術者としての記録であるが、どちらも国家的視点から展開され、とても二十歳前後の工女とは思えない。裏を返せば近代日本の出発がいかに国家的独立が急務であり、世界に伍していかなければならなかったの現れであると考えていいであろう。

長野県松代からの一行は16名であった。英がこれほどまでの国家的指名を持ったのは英のエートスがそうさせたのか...それには儒教的な視点から考えることができる。松代には佐久間象山がいる。「東洋道徳」というよりは「西洋芸術」に力点をおく佐久間象山型だとみることもできようが、どちらかと言えば、英の精神構造は横井小楠の『西洋器械の術・堯舜孔子の道」に近いのかもしれない。

3. 日本は黒船圧力による開国に迫られ、この圧力の挑戦への応戦が最大の課題となった。この幕末から明治維新を担当した主役は「武士道精神」と「経書・歴史書・諸子類・詩文集」で鍛えられた地方藩出身の素朴な田舎武士たちであった。そして明治維新後はその家庭で育った「武士の娘・武士の妻の力」に支えられた。まさに富岡日記の横田英(和田)などはその典型であった。

(話しは変わるが、昭和の敗戦から再出発した戦後の都市化、工業化の中で「農村から都市へ流入した地方農村青年層」があった。そして、子供や夫を都市や工場に送り、自らは「農村や地方を守った三ちゃん」(かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん)があった。これら「戦中,戦後体験の力」「地方農村出身の青壮年の力」そして「三っちゃんの力」が日本復興と再建のエネルギーとして結集した。)


今日、日本(群馬)の養蚕・製糸業は風前の灯と表現してもいい、それほど衰退の一途を辿っているし、いや辿りつつある。かつて、近代日本をリードした面影はもはやない。これも産業構造のなせる業かもしれない、が、しかしである、その輝ける精神は不滅である。

The past is ahead という言葉がある、経済活動はややもすると前にばかり目が向きがちである。将来のことばかり考えがちである。こうした視点に立てば養蚕・製糸は完全にpast過去であり、何の意味もなさなくなってしまう。日本の養蚕・製糸はよかったで終わりになってしまう。だが、pastはaheadであるという。過去は前進している。一歩抜きん出ているという。こうした視点に立てば、近代日本(群馬)の養蚕・製糸業はけっしてたんなる過去ではない。文字どおり、一歩進んでいることになる。それがここに取り上げた偉大なる横井小楠、坂本龍馬、由利公正、勝海舟、佐久間象山など幕末、明治維新の先駆者たちの思いである。
山崎益吉さんの製糸工場のエートスから引用させてもらまいした。

渋沢栄一や井上馨も忘れてはいけません..そして小栗上野介もです..。


エピローグ.. いよいよ来年にユネスコ本部からイコモスの委員が富岡にやって来る?。(イコモスがやってくるのは正式なタイムスケジュールではないようでした..市長がすべてのスケジュールが1年以上遅れると先日発表しました)。

町の中は市がお金を沢山かけて造ったガラガラの駐車場と繭や桑、絹、蚕、そして世界遺産富岡製糸場の名前の付けただけのお土産が毎日増えていく有様。元々富岡製糸場にあったフランス操糸機は今は岡谷の博物館にある...あげくの果てに市はフランス操糸機のレプリカを作るとか...これで本当に産業遺産としてふさわしいのかこの町は...。
富岡製糸場にお出でいただいた7割の人たちからは『富岡製糸場は見るものがない」とか「二度来るところではない」などとという声が聞こえて来る。確かに富岡製糸場の日産の操糸機は錆びて動かず、繭倉庫の建物の中も空っぽである...。
富岡製糸場の建物の中は何も無い....?いや違うのであります。富岡の先人達の知恵と汗と技術が立派に残っています。そして一心に国富を積み上げようと糸取りに精を出した横田英たち工女の誠の精神が漲っていたのです....。

富岡製糸場には残したい伝統と伝えたい精神がびっしりと詰まっているのです!!